朝の徒花

3-3.主導権

三重と和歌山への工場査察。
一週間の長い出張から奈良さんが戻ってきたその日、私の会社携帯が鳴った。
画面に表示されたのは、待ち焦がれていた彼の名前。

「お疲れ様です、奈良さん。
無事に戻られたんですね。」
「うん、今さっきこっちの事業所に着いたところだよ。
それで、宮本さん。
もし良かったら、今日これから少しだけ、この間の珈琲店で会えないかな?」

受話器の向こうから聞こえる奈良さんの声は、いつになく弾んでいて、どこか切羽詰まったような熱を帯びていた。
出張期間中、毎日のように残業時間帯を狙って重ねた長電話。
声だけで繋がっていた時間が、彼の私に対する飢餓感をここまで育て上げたのだ。

(うん、完璧。)

私は鏡に向かっていつもの愛らしい笑顔を作ると、「はい、喜んで。すぐに向かいますね」と答えて会社を出た。

夕暮れ時の珈琲店は、お盆が明けた平日のせいか、相変わらず客の姿がまばらだった。
奥のボックス席に腰を下ろしている奈良さんを見つけ、私は小さく手を振りながら歩み寄る。

一週間ぶりに見る彼の姿は、出張の疲れを感じさせないほど、どこか瑞々しく活気に満ちていた。
私を見つめるその瞳の奥に、隠しきれない情熱が揺れている。

「お待たせしました、奈良さん。
出張、本当にお疲れ様でした。」
「ううん、ボクも今着いたところだから。
わざわざ急に呼び出してごめんね。」

私たちは当たり障りのない出張中の苦労話や、お互いの部署の近況をひとしきり語り合った。けれど、奈良さんの視線はさっきから、私の手元や、何より私の耳元を何度も泳いでいる。
そのソワソワとした様子が可愛くて、私はわざと気づかない振りをしながら、楽しそうに彼の話に相槌を打ち続けた。

会話が一段落したところで、奈良さんが意を決したように自分の鞄に手を伸ばした。
取り出したのは、手のひらに収まるほどの小さな袋。
それを、壊れ物でも扱うかのように、そっと私の前に差し出してきた。

「これ、出張のお土産。
家族や職場には普通のお菓子を買ったんだけど、これは君に。」
「えっ?私に、ですか?」

私は驚いたように目を見開いてみせる。

「うん。お店で見つけた時、どうしても君に似合うと思って。
旦那さんでもないボクが、こんなものを渡すべきかすごく悩んだんだけど。
良かったら、受け取ってほしい。」

奈良さんの耳が、うっすらと赤く染まっていく。
私は胸の高鳴りを抑えながら、ゆっくりと袋を開けた。
真ん中に、上品な、けれど確かな本物の輝きを放つ一粒の真珠が見えていた。
真珠のイヤーカフだった。


(嘘、お菓子じゃなくて、こんなものを選んでくれたんだ。)

内心では、跳び上がるほどの歓喜が脳内を駆け巡っていた。
先日のワインデートで、私が「これからは奈良さん専用」と言って身につけた500円のイヤリング。
彼はそれを、自分の選んだ「本物の真珠」で塗り替えようとしたのだ。
重すぎる指輪ではなく、既婚者の私でも言い訳の立つイヤーカフというチョイス。
その真面目な彼なりの必死の打算と、底なしの独占欲が、この小さな真珠にこれでもかと詰まっている。

尊い。
尊すぎて、今すぐ彼に抱きつきたいほどの衝動が押し寄せる。

しかし、私はその激しい興奮を、絶対に表面には出さなかった。
フッと沸き立ちそうになる表情を完璧に統制し、ただ「純粋にプレゼントを喜ぶ、健気な元部下」の顔を維持する。

ここで、私も同じだけの熱量で彼に応えてしまってはダメなのだ。
お互いに独占欲を剥き出しにして、求め合うままに一線を越えてしまったら、その瞬間に私たちの関係は、世間にありふれた、薄汚くて下品な「ただの不倫関係」に成り下がってしまう。
泥沼の不倫劇になった途端、奈良さんの強烈な自己防衛本能と罪悪感が働き、彼は私を切り捨てて家庭へ逃げ帰るだろう。
過去にモーニングコールを絶たれた時のように。

だから、私は絶対にスタンスを崩さない。
主導権は常に私が握る。
あくまで自分は、彼の熱意に「追われる側」でいなければならない。
奈良さんの大人の理性をジワジワと溶かし、彼の感情を限界まで掻き立てつつも、表面上はどこまでも無邪気で、やましいことなど何一つない「仲の良い、歳の離れた友人」の仮面を被り続けるのだ。

「奈良さん、これ、本物の真珠ですよね?
こんな素敵なもの、本当に私が貰ってもいいんですか?」

私はイヤーカフを見つめたまま、わざと少し困ったように、けれど愛おしさを隠せないといった風に声を震ませた。

「いいんだ。
君にそれをつけて欲しくて選んだんだから。
迷惑、だったかな?」
「まさか!
迷惑だなんてとんでもないです。
すっごく、嬉しい。
奈良さんが、出張先でも私のことを考えて、これを選んでくれたんだって思うだけで、胸がいっぱいになります。」

私は視線を上げ、奈良さんの目を真っ直ぐに見つめた。
そして、小首を傾げながら、彼を壊すための優しい毒を言葉に混ぜる。

「でも、これからは『奈良さん専用』の耳元がこんなに高級になっちゃいましたね。
今度二人でご飯に行く時、絶対にこれ、つけていきます。
誰にも見せられない、奈良さんと私だけの秘密がまた一つ増えちゃいましたね。」

「あ、うん。
そうだね。
宮本さんが喜んでくれて、本当に良かった。」

奈良さんは、私の言葉に完全にノックアウトされたような、恍惚と動揺の入り混じった表情で深く息を吐いた。
彼の瞳は、もう完全に私という阿片に溺れている。
私の手のひらの上で、彼の理性がボロボロと崩れ落ちていく感触が、たまらなく愛おしく、そしてゾクゾクするほど気持ちが良かった。

「ふふ、旦那さんとの調整も上手くいきましたし、来月の『月1回のお酒の席』、今から本当に楽しみです。
奈良さん、その時はまた、たくさんお話ししてくださいね。」

あくまで「ルールを守る健全な友人」としてのセリフを添えて、彼を安心させる。
時計の針が帰宅の時間を告げる頃、私は大切にイヤーカフの袋をカバンに仕舞い、奈良さんとお店を出た。

車を走らせながら、カバンの中の真珠に思いを馳せる。
彰将さんから貰った退屈なプラチナのネックレスは、今やドレッサーの奥で埃をかぶっている。
けれど、この真珠は違う。
仕事中も、生活の中も、私の耳元でずっと奈良さんの執着を証明し続ける、私と彼の「精神的抱擁」の結晶。

(大丈夫。
私たちは一線なんて越えていない。
ただの、仲の良い友人同士だもの。)