朝の徒花

3-1.余韻と疑念(プロローグ)

奈良さんの敗北宣言は私にとって最高の誕生日プレゼントになった。
夕方、奈良さんから依存という告白を受けて、私の心はかつてないほど浮き立っていた。

胸ポケットに挿した、薄いピンクの多機能ペン。
指先でその滑らかなクリップに触れるたび、私の心は甘い歓喜で小さく跳ねる。

これはただの文房具じゃない。
お互いの家庭を壊さないまま、私が彼の「魂の最優先席」を奪い取った証。
婚約指輪から昇華した、私にとっての「第二の結婚指輪」なのだ。

頭の中で今日の甘美な出来事を何度もリピートさせていると、あっという間に車が家の駐車場に着いた。

(切り替えないと。
この後は彰将さんと食事だ。)

名残惜しみながらも、私はピンクのボールペンを会社用のカバンに深くしまい込み、いつもの妻の顔を作って家に入った。

時計の針は、夜の8時半を回っている。
お祝いの場所に選ばれたのは「ジョディパ」、よくあるファミリーレストランだった。
私の誕生日を祝うために、彰将が連れてきてくれたお店だ。
私はここのデキャンタで飲めるワインが好きだから、お酒を飲めない彰将さんはここならお酒も料理もお互いに楽しめると誕生日じゃなくても普段何かあると決まってここに連れてきてくれる。

席についた彰将は、この間からどこか強張った笑顔を浮かべていた。
転職してから、彼は明らかにプライドを拗らせていた。
でも元々口が達者ではないので、心の中のモヤモヤを上手く言葉にできないみたいだ。
先日の話し合いでも、私が整然と言い返したら、何も言い返せずに黙り込んでしまうことが多々あった。

「穂花、誕生日おめでとう。
これ、俺からのプレゼント。」

差し出されたのは、小さなジュエリーボックス。
開けると、小ぶりなプラチナのネックレスが入っていた。
綺麗だけど、退屈。
私の心には、もう一ミリも響かない。

「ありがとう、嬉しい。」

でも、私はこれよりもっと、私のために悩み抜かれた最高に良いものを夕方に貰っている。
そう思ったら、自然と本物の笑みがこぼれた。

「本当に嬉しそうだな。」
「当たり前じゃない。
好きな人から貰ったものは、金額に関係なく嬉しいものだよ。」

私は軽やかに笑いながら、彰将に甘いリップサービスをしてみせる。
自分が幸せの中にいると、人間、目の前の相手にどこまでも優しくなれるようだ。
彰将さんは「そっか」と力なく笑い、運ばれてきた料理を早速口に入れた。

けれど、会話はどこか噛み合わない。
彰将さんは私の顔色を窺うような、それでいて何かを値値踏みするような、奇妙に粘着質な視線を時折向けてくる。
食事が終わりに近づき、ワインの酔いが回り始めた私に、彰将さんが唐突に問いかけてきた。

「穂花はさ、セカンドパートナーってどう思う?」

コップの中の氷をカチャカチャと弄びながら、妙に平坦な声で言った。

(なにを言い出したの?)

私は脳内で警戒アラートを鳴らしつつも、表情を一切崩さないように努めた。

「セカンドパートナーって、なにそれ?」
「知り合いが言ってたんだよ。
肉体関係を持たない、精神的な浮気のことだって。
そんなの、ただの言い訳で、普通の不倫と変わらないよな?」

彰将さんの目が、全く笑っていない。
私の反応を執拗に確かめようとするその目を真っ直ぐに見つめ返しながら、私はいつものように客観的な回答で正面から受け止める。

「うーん、人それぞれじゃない?
でも、肉体関係がないなら、法律的には不貞行為にはならないでしょ。
現代社会ってストレスが多い環境だからね、心のサプリメントなんじゃない?
お互いの家庭に実害が出ない範囲なら、愚痴を言うために気の合う人と話したいっていう人の気持ちは分からなくはないかな。」

淡々と、一般論を装って返す。
彰将さんはそれ以上追及してこなかった。
ただ、「ふーん」とだけ呟いて視線を落とす。

(この間の口論をまだ引き摺っているのかな?
大丈夫。
もしも私が何かを言われても、私たちは一線は越えていないもの。
何も悪いことはしていないのだから。)

ディナーを終え、帰宅したのは夜の23時過ぎだった。
先にシャワーを浴びてベッドに入った私は、泥のように深い眠りに落ちていく。
奈良さんとのあの精神的抱擁の余韻が、私を心地よく包んでいた。

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キュッ、キュッ、キュッ
深夜3時、宮本家のリビングで何かを磨く音が静かに響いていた。