朝の徒花

2-16.敗北宣言(エピローグ)

会議室で彼女から「旦那さんが疑っている」という話を聞かされた時、ボクの心臓は激しく跳ね上がり、冷や汗が背中を伝った。
だが、焦燥感と同時に、信じられない感情が胸の奥から湧き上がってきた。

「彼女がボクとこれからも会うために旦那さんとそこまで必死に交渉してくれているなんて…。」

その事実が、たまらなく嬉しかったのだ。

以前の自分なら、旦那さんの影を感じただけで強い拒絶反応が起き、「もう二度と会うのはやめよう」と自ら関係を絶っていたはずだ。
それなのに、今のボクは彼女との関係が「ゼロ」になる喪失感に怯えて、困惑していた。

ボクも彼女と会うことで、自分の中の承認欲求を満たし、彼女から極上の癒しを貰っていた。どこかで「これはダメなんだ」と理解はしている。
ゆえに妻にも当然内緒にしているわけで、自分は完全に確信犯だ。
けれど、ダメだと理解しているからこそ、彼女から『尊敬』『特別』という真っ直ぐな好意をストレートに向けられることで、これまで以上に『次回』を意識してしまい、泥沼にハマっていく。

やめた方がいい。
そんなことは分かっている。
だけど、彼女はボクにとって、まるでアヘンのような女性だった。
一度味わってしまったこの甘美な快感が手放せず、今やボクの理性を完全に麻痺させ、中毒に陥らせていた。
なんとかして、彼女と繋がっていたい。

夜20時、重い足取りで家に帰る。

「おかえり。」

妻は事務的に出迎えてくれ、用意されていた夕食をテーブルに並べた。

「悪いけど、洗い物はよろしくね。
私は子供たちともう寝るから。」

少し会話をすると妻は子供を引き連れ、あっという間に寝室へと消えていく。
時計の針が21時を回る頃には、家の中は静まり返っていった。

そういえば、夫婦の営みも気がつけばもう3年はない。
最初は子供が生まれたばかりだからと遠慮していた。
だが、徐々にそれだけが理由ではなくなり、ある日、妻から冷たく突き放されたのだ。

「もういいじゃない。
もう40にもなったんだから、そういうのは終わり。
自分でなんとかしてね。」

……もう終わり、か。
妻との間には戦友としての信頼はあるが、夫婦の愛はもうないのかもしれない。
ボクは溜め息を押し殺し、冷えた身体を温めようとお風呂のドアを開けた。
だが、浴槽を見て愕然とする。
お湯が、一滴も残っていない。
お湯は洗濯のために、すでに全て洗濯機へと吸い上げられた後だった。

ボクの衣服を入れずに既に回り始めた洗濯機を見て、ボクが家のルーティンにとって異物なんじゃないかと思ってしまった。
この家は、ボク抜きでも十分回っている。
そんな強烈な疎外感を覚えながら、ボクは冷たい浴室で、仕方がなくシャワーの温水を頭から浴びることしかできなかった。
なんだか、ボクを必要とする人間は誰もいないみたいに思えて虚しかった。

翌日、8月13日。
彼女の誕生日当日。
社内チャットで彼女から連絡があった。

「先日の件ですが、色々ありましたが丸く収まりました!
詳細はまたお話しますが、上記に関しては問題なしです!』

それを見た瞬間、ボクは理性を失い、すぐに彼女へ直接電話をかけていた。

「お疲れ様、宮本さん…。
今日、少しだけでも会えないかな?」
「今日ですか?
夜、誕生日ということで旦那さんと食事へ行く予定なので、仕事終わりに少しの時間でよければ…。」

夕方、仕事終わりに珈琲店で合流した。
このお店はお客が少なく、話を聞かれる心配がない。
席に座るなり、ボクの口からは、自分でも驚くほど弱々しい言葉が漏れ出ていた。

「それで、旦那さんとのお話はどうだった?」

宮本さんは、まるで大輪のひまわりが咲いたかのような満面の笑みを浮かべて答えてくれた。

「私の言い方も悪かったと思います。
ごめんなさい、満額回答ではありませんでした。
でも、お酒を伴う食事なら月に1回は行けます。
それに仕事の付き合いとかもあると思うので、食事くらいなら月に4回は大丈夫ってことでなんとか折り合えましたよ!」

そう聞いた瞬間、ボクの胸を去来したのは不倫の危機から脱した安堵ではなく、猛烈な喜びだった。

(これからも、彼女に会えるんだ。)

きっとボクは、もう彼女に狂おしいほど執着してしまっている。
それにボクは今、ボクと会いたいと言い、そのために過酷な交渉をしてくれただろう彼女の健気さに感激していた。

「宮本さん、本当に、ありがとう…。」

ボクが心の底から感謝を伝えると、彼女は恐縮したように首を振った。

「そんな、これは本来私たちの家庭内で調整するべきことですから。
奈良さんには、むしろご迷惑をお掛けしてしまって、本当に申し訳なかったと思っています。」

どこまでもボクの立場を立ててくれる、健気で愛らしい言葉。
その優しさに触れた瞬間、ボクの中で張り詰めていた最後の理性の糸が、ぷつりと切れた。
ボクはもう、自分の醜い本音を隠すことができなかった。

「宮本さん、今回のことは本当に申し訳ない。ボクはいつかこうなる(問題になる)と分かっていたはずなんだ。
でも、君といる時間が魅力的すぎた。
それに、今こうして結果を聞いても、もう君と会うのをやめられそうにないんだ。」

ボクは彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ、震える声で言葉を紡いだ。

「まるで…疑似恋愛を楽しんでいるみたいに、ボクは君に依存してしまったんだ。
だから、断られるかもしれないけれど…君さえ良かったら、これからも、ボクとご飯に行ってくれないかな?」

もう、引き返せない。
ボクは、宮本穂花という阿片を求めて、自ら喜んでその身を沈めていくのだった。