2-13.疑い
最近の俺は胸の奥が常に不満と不安で満たされていた。
穂花に対して「元上司との飲みは月に1回まで」というルールを課している。
その時は夫婦の防衛線を張れたつもりでいた。
けれど、古くからの知人に会って何気なく相談した際、誰もが顔を曇らせて同じことを言った。
「彰将、それはおかしいよ。
奥さん、絶対に浮気してるって。」
「肉体関係がないから、公認だからって、男女が二人きりでそんなに逢瀬を重ねてるなら、それは立派な『精神的不倫』だよ。
大人にもなってその自覚がないなんて、あり得るのか?」
知人たちの言葉が、俺の胸の底にある不安の種に容赦なく水を注いだ。
やっぱり、おかしいんだ。
一方で最近の穂花は、以前の仄暗さが嘘のように明るい。
けれど、それは元上司と会う時だけではないようだった。
純粋に新しい職場での仕事が忙しくなり、任される役割が増えているらしい。
彼女はそれが楽しくて仕方ないのだ。
今の彼女の職場は、いわゆる「飲みニケーション」を強く推奨しているらしく、平日の夜も週に2回は当たり前のように飲み会が入っていた。
そしてこの日も、土曜日だというのに「新人の歓迎会だから」と夕方から出かけようとしていた。
玄関へ向かう彼女の背中に、俺は耐えきれず、寂しさを滲ませて声をかけた。
「……俺たちの時間が、どんどん減っていくな。」
引き止めるようなその言葉に、穂花は一瞬で表情を硬くし、怒りを露わにする。
穂花の口から飛び出したのは、俺のプライドを根底からへし折るような、冷徹な理論だった。
「仕事なんだから仕方ないじゃない!
最近ずっと不満そうだから言わせてもらうけど……。
よく仕事とプライベートのバランスって言うし、彰将さんも『仕事よりプライベートが優先』って言うけれど、私はそんな古い考え方はどうかと思う。
今の時代、仕事が先にあって、その次にプライベートがあるの。
任された仕事の責任や、貰えるお給料が多いほど、『公(おおやけ)』という分母が大きくなる。
その大きくなった分母の上に初めて、人格やプライベートへの裁量っていう『私』の分子が乗れるのよ。
彰将さんが私に不満を言うなら、まずは自分の分母を大きくしてちょうだい。」
何も、言い返せなかった。
やっぱり、俺の今の仕事が上手くいっていないことが、全ての原因なのだろうか。
年収が大きく下がった今の俺は、彼女の言う「分母の小さい男」なのだ。
最近では、顔も見たことのない、大企業で働く優秀な元上司と自分を比較しては、暗い部屋で一人落ち込む時間が増えていた。
夜の2時。玄関の鍵が開く音がして、穂花が帰ってきた。
普段なら、どんなに酔っていても自分の部屋のベッドへ行くはずなのに、この夜の彼女は珍しい。
リビングの俺のベッドへとふらふらと歩いてきて、そのままダイブした。
衣服からは、強い酒の匂いが漂っている。すでに深い寝息を立て始めている。
よくここまで飲むな、と呆れながらも、このままでは身体が痛くなるだろうと服を着替えさせようとした、その時だった。
うつ伏せのまま、穂花がボソッと、苦しそうに呟いた。
「……失敗したなぁ……」
心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ね上がった。
何に、失敗したのだろう。
今の俺には、その言葉が、今朝の彼女の冷たい拒絶と繋がり、俺との結婚そのものを後悔しているのだとしか思えなかった。
激しい動悸が止まらない。
冷や汗が全身から噴き出し、居ても立ってもいられなくなった。
頭がおかしくなりそうで、何か、何かないかを探す。
別のことをしてこの恐怖から逃れなければ、頭が割れてしまいそうだ。
俺は吸い寄せられるように掃除用具を手に取り、狂ったように家中を掃除し始める。
床を拭き、キッチンを磨き、狂気的な焦燥感に背中を押されながら、結局、朝の7時までノンストップで家の中をピカピカに磨き上げるのだった。
朝、目を覚まして起きてきた穂花が、リビングを見て息を呑んだ。
「どうしたの!?
家がピカピカじゃない……っ」
顔色の悪い俺を見て怯える穂花に、俺は夜中の彼女の寝言のことを、掠れた声でそのまま話す。
すると穂花は、少し慌てた様子で俺の手を握ってきた。
「あぁ~、あれはそんな意図で言ったんじゃないよ!
勘違いさせてごめんね。
帰ってきて、メイクも落としてないのに身体がどうしても動かなくて、そのままがまぶたが閉じていくのが分かったから、『あーあ、メイク落とすの失敗したな』って意味で言っただけなの。」
彼女の慌て方や、申し訳なさそうな笑い方を見て、それが嘘偽りのない本心であり、事実なのだと理解出来る。
それに、その瞬間は心から安心できた。
けれど、一度胸に深く刻まれてしまった「しこり」は、別問題だった。
俺の心の中に住み着いた猛烈な劣等感は、今も頭の奥で、けたたましく警報を鳴らし続けている。
本当にそれだけか?
本当に、俺との結婚を後悔していないのか?
俺の脆くなった理性が、見知らぬ「元上司」の影を、今も疑い続けていた。
最近の俺は胸の奥が常に不満と不安で満たされていた。
穂花に対して「元上司との飲みは月に1回まで」というルールを課している。
その時は夫婦の防衛線を張れたつもりでいた。
けれど、古くからの知人に会って何気なく相談した際、誰もが顔を曇らせて同じことを言った。
「彰将、それはおかしいよ。
奥さん、絶対に浮気してるって。」
「肉体関係がないから、公認だからって、男女が二人きりでそんなに逢瀬を重ねてるなら、それは立派な『精神的不倫』だよ。
大人にもなってその自覚がないなんて、あり得るのか?」
知人たちの言葉が、俺の胸の底にある不安の種に容赦なく水を注いだ。
やっぱり、おかしいんだ。
一方で最近の穂花は、以前の仄暗さが嘘のように明るい。
けれど、それは元上司と会う時だけではないようだった。
純粋に新しい職場での仕事が忙しくなり、任される役割が増えているらしい。
彼女はそれが楽しくて仕方ないのだ。
今の彼女の職場は、いわゆる「飲みニケーション」を強く推奨しているらしく、平日の夜も週に2回は当たり前のように飲み会が入っていた。
そしてこの日も、土曜日だというのに「新人の歓迎会だから」と夕方から出かけようとしていた。
玄関へ向かう彼女の背中に、俺は耐えきれず、寂しさを滲ませて声をかけた。
「……俺たちの時間が、どんどん減っていくな。」
引き止めるようなその言葉に、穂花は一瞬で表情を硬くし、怒りを露わにする。
穂花の口から飛び出したのは、俺のプライドを根底からへし折るような、冷徹な理論だった。
「仕事なんだから仕方ないじゃない!
最近ずっと不満そうだから言わせてもらうけど……。
よく仕事とプライベートのバランスって言うし、彰将さんも『仕事よりプライベートが優先』って言うけれど、私はそんな古い考え方はどうかと思う。
今の時代、仕事が先にあって、その次にプライベートがあるの。
任された仕事の責任や、貰えるお給料が多いほど、『公(おおやけ)』という分母が大きくなる。
その大きくなった分母の上に初めて、人格やプライベートへの裁量っていう『私』の分子が乗れるのよ。
彰将さんが私に不満を言うなら、まずは自分の分母を大きくしてちょうだい。」
何も、言い返せなかった。
やっぱり、俺の今の仕事が上手くいっていないことが、全ての原因なのだろうか。
年収が大きく下がった今の俺は、彼女の言う「分母の小さい男」なのだ。
最近では、顔も見たことのない、大企業で働く優秀な元上司と自分を比較しては、暗い部屋で一人落ち込む時間が増えていた。
夜の2時。玄関の鍵が開く音がして、穂花が帰ってきた。
普段なら、どんなに酔っていても自分の部屋のベッドへ行くはずなのに、この夜の彼女は珍しい。
リビングの俺のベッドへとふらふらと歩いてきて、そのままダイブした。
衣服からは、強い酒の匂いが漂っている。すでに深い寝息を立て始めている。
よくここまで飲むな、と呆れながらも、このままでは身体が痛くなるだろうと服を着替えさせようとした、その時だった。
うつ伏せのまま、穂花がボソッと、苦しそうに呟いた。
「……失敗したなぁ……」
心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ね上がった。
何に、失敗したのだろう。
今の俺には、その言葉が、今朝の彼女の冷たい拒絶と繋がり、俺との結婚そのものを後悔しているのだとしか思えなかった。
激しい動悸が止まらない。
冷や汗が全身から噴き出し、居ても立ってもいられなくなった。
頭がおかしくなりそうで、何か、何かないかを探す。
別のことをしてこの恐怖から逃れなければ、頭が割れてしまいそうだ。
俺は吸い寄せられるように掃除用具を手に取り、狂ったように家中を掃除し始める。
床を拭き、キッチンを磨き、狂気的な焦燥感に背中を押されながら、結局、朝の7時までノンストップで家の中をピカピカに磨き上げるのだった。
朝、目を覚まして起きてきた穂花が、リビングを見て息を呑んだ。
「どうしたの!?
家がピカピカじゃない……っ」
顔色の悪い俺を見て怯える穂花に、俺は夜中の彼女の寝言のことを、掠れた声でそのまま話す。
すると穂花は、少し慌てた様子で俺の手を握ってきた。
「あぁ~、あれはそんな意図で言ったんじゃないよ!
勘違いさせてごめんね。
帰ってきて、メイクも落としてないのに身体がどうしても動かなくて、そのままがまぶたが閉じていくのが分かったから、『あーあ、メイク落とすの失敗したな』って意味で言っただけなの。」
彼女の慌て方や、申し訳なさそうな笑い方を見て、それが嘘偽りのない本心であり、事実なのだと理解出来る。
それに、その瞬間は心から安心できた。
けれど、一度胸に深く刻まれてしまった「しこり」は、別問題だった。
俺の心の中に住み着いた猛烈な劣等感は、今も頭の奥で、けたたましく警報を鳴らし続けている。
本当にそれだけか?
本当に、俺との結婚を後悔していないのか?
俺の脆くなった理性が、見知らぬ「元上司」の影を、今も疑い続けていた。
