朝の徒花

2-12.第三戦 婚約

今日は、待ちに望んだワインデートの日。
奈良さんがチョイスしてくれたのは、駅から少し離れた場所にあるイタリアンレストラン「インコントロ」だった。
二週連続で奈良さんと二人きりでお酒を飲めるなんて、嬉しくて胸が弾む。
お店へと向かう道すがら、私たちは夜の街をゆっくりと並んで歩いた。
この静かな時間さえも、今日の食事会をより温かいものにするための愛おしい布石に思える。
 
「奈良さん、今日は本当にありがとうございます。大人になってまで、こんな風に誕生日をきちんとお祝いしてもらえるなんて思ってもみなかったので誘っていただけて本当に嬉しかったです。」
「そんな、大したことじゃないよ。
期待しすぎたらダメだからね。
豪華な花束とかを用意しているわけじゃないんだから。」
「ふふっ、そんなプロポーズをするわけじゃないんだから、花束は大袈裟ですよw
でも、4月以来、本当に大切にしてもらえているなってよく思います。
私、最近の一番の楽しみは、奈良さんとお出かけすることなんですよ。
奈良さんのお話されるエピソードトークが面白くて、いつも時間が足りないなって思っちゃいますから。」
 
そう伝えると、奈良さんは少し照れたように顔をほころばせた。
やっぱり可愛い人だな、と思う。
 
お店に着くと、ピザや生ハム、チーズなどを適当に頼み、さっそくワインを注文した。
そして今回も、私はカバンから例の粉末ウコンを取り出して、水のペットボトルと一緒に手渡した。
 
「はいどうぞ、恒例の儀式です。
前回、効きました?」
「どうだろう?
分からないというのが本音だけどね。
二日酔いの防止というよりは肝臓の数値を労るものだし。
宮本さんは?」
「私もです。
それに、私普通に二日酔いするんですよ。
次の日は頭が痛くなったり、吐き気がしたり。
でも、そういえば前回のワイン、あんなに飲んだのに不思議といつもより頭が痛くならなかったんですよね。」
「あぁ、それは副交感神経が優位になったからかもしれないね。」
 
奈良さんは、嬉しそうに得意の雑学を披露し始めた。
 
「心を許せる人と一緒に過ごしたり、会話を楽しんだり、適度なスキンシップをとったりするとね、脳内から幸福ホルモンとも呼ばれる『オキシトシン』という物質が分泌されるんだよ。
そうすると精神が安定したり、痛みの閾値(いきち)が高まったりするんだ。
ボクとのワインでそう感じてもらえた、ということかもね。」
 
(ボクとのワインで、心を許せる人と――)

そんなこと言うなんて、ありがたい。
今日は最初から心が緩んでいるようだ。 
普段なら絶対に言わないようなラインに、冗談だとしても奈良さん自ら踏み込んできている。
私はいたずらっぽく微笑み、彼を上目遣いでからかった。
 
「難しいことはよく分かりませんけど、楽しかったからきっとそうなんです。
……それって奈良さん、遠回しに私を口説いてるんですね?
『ボクといて幸せだろ』ってw」
「まさか、そんなつもりじゃ……っ。」
 
奈良さんは一気に耳まで真っ赤にして狼狽えた。
そんな意図はなかったのだろうけれど、こうして恋人のようにじゃれ合える空気感が、私はたまらなく愛おしい。
恥ずかしさに耐えかねたのか、奈良さんは慌てて鞄から小さなラッピングされた箱を取り出し、目の前に差し出してきた。
 
「ちょっと早いけど、からかわれて恥ずかしいから話題を変えるね。
はい、ボクからだよ。
誕生日おめでとう。」
 
「えっ!
ありがとうございます!
なんだろう?
気になるから今開けてもいいですか?」
 
奈良さんが優しく頷くのを見て、丁寧に包装を解く。
箱を開けると、そこには上品で美しい多機能ペンが収められていた。
 
「あっ、ボールペンですか……?
こんな高級そうなもの、かえって気を使わせてしまいましたか?」
「いや、気なんて使ってないよ。
実はボクも、少し新鮮な気分を味わわせてもらってね。
こんなに真剣にプレゼントを何にするか悩んだのは、結婚以来初めてかもしれない。
アクセサリーはさすがに重いなとか、どの色が君の雰囲気に似合うかなって、選んでいる時間も楽しかったよ。」
 
(私のために、そんなに悩んで、時間を割いてくれたんだ!)
 
胸の奥から、熱い塊が込み上げてくる。
 
「そんなに考えていただいたんですか……。
本当に嬉しいです!
私、仕事で毎日使うので、今度機会があったら制服の胸ポケットに差さっているか見てくださいね。
……なるほど、確かに今、幸福ホルモンがもの凄く分泌されてます。
なんだか、今すごく幸せ。
このボールペンを肌身離さず身に付けていれば、仕事中も奈良さんがいつも私のことを見守ってくれている気分になれますね!」
 
私が満面の笑みで答えると、奈良さんは嬉しそうに目を細めた。
 
彼は気づいていない。
この薄いピンク色のボールペンは、「第二の婚約指輪」なのだということに。
仕事中、ずっと心臓に一番近い胸ポケットで、奈良さんの存在を感じていられる最高の契約の証。
大切に、大切に使おう。
 
ワインが進み、完全に心のガードが下がったのだろう。
奈良さんは、やがてポツリポツリと、ご家庭での不満や孤独感を吐露し始めた。
必死に家族のために働いてきたのに居場所がないという彼の寂しさに、私はただ静かに耳を傾ける。
しばらくして、奈良さんはハッと我に返ったように苦笑した。
 
「ごめん、今日はお祝いだったのに、つい暗い話をしちゃったね。」
「いいんですよ。
前回は私が旦那の愚痴を言っちゃったんですから、お互い様じゃないですか。」
 
私はテーブルの上に少し身を乗り出し、彼の瞳を見つめて優しく囁いた。
 
「私は、奈良さんがそうやって話してくれた方が、心を開いてくれたみたいで凄く嬉しいです。
……なんなら私たちはきっと、お互いの『心の隠れ家』になれるんですよ。」
「隠れ家……?」
「『王様の耳はロバの耳』って言いますけど、誰にだって、誰かに聞いて欲しい時ってあるじゃないですか。
でも、仕事の愚痴を直接部下に言うわけにはいかないし、家庭の不満を奥さんには言えない。
だから、私になら何でも言ってもいいんですよ。
私は聞くことしか出来ないかもしれませんけど、それですっきりすることもあるでしょうし。」
「えっ!?
隠れ家……そんな甘えるようなことをしたら、宮本さんに申し訳ないな。」
「良いんですよ。
代わりに、奈良さんも私の隠れ家になって欲しいんです。
……ダメ、ですか?」
 
少し小首を傾げて甘えてみせると、奈良さんは「ありがとう、よろしくね」と照れくさそうに微笑んだ。
きっと彼は、この言葉の本当の重みを理解していない。
お互いに愚痴を言い合える、気の置けない友人にステップアップした、程度にしか思っていないのだろう。
 
けれど、これは明確な「精神的依存」の第一歩。
彰将さんを完璧に言い負かして勝ち取った「月1回のお酒の席」。
そのルールの中で、奈良さんの頑なだった理性の壁が、ボロボロと音を立てて崩れていく。
その様子を特等席で眺めながら、私はワインの酔いとは別の、どろりとした甘い悦楽に深く深く、浸っていた。