朝の徒花

2-6.開戦 後(彰将視点)

時計の針が24時を回った頃、静まり返ったリビングに玄関の開く音が響いた。
 
「ただいま、遅くなっちゃってごめんね」
 
ドアを開けて入ってきた妻の穂花は、一日中動き回っていたはずなのに疲れた様子もなく、むしろ喜色満面な笑みを浮かべていた。
その元気そうな様子を見て、「楽しめたんだな」と深い満足感を覚える。
 
「お帰り。楽しかった?」
「うん!
初めてのゴルフなんだけど、全然ボールに当たらなくて笑っちゃった。
でもすごく楽しかったよ!」
 
上着を脱ぎながら楽しそうに語る穂花の姿に、最近見せていた仄暗い表情は微塵もなかった。
ちゃんと明るさを取り戻せたんだな、と実感が湧く。
 
「ねえ、彰将さん」
 
穂花はいたずらっぽく笑いながら、俺を振り返った。
 
「私、ゴルフの練習をもう少ししておきたいの。
彰将さんも一緒に練習しない?
ちゃんと練習しておかなくちゃ、次、打ちっぱなしにいざ行くぞってなっても、奈良さんに笑われちゃうから。
そうだ!
いつか本物のコースも回ろう!
コースデビューがあると思えば目標にもなるよ!」
「そうだな、俺も久しぶりに体を動かしたいし一緒に行くか」
 
俺は微笑みながら頷いた。
結婚して4年。
お互いの存在が当たり前になり、どこかマンネリ化していた夫婦関係に、心地よい風が吹き込んできたような感覚だった。
 
実はここ最近、俺の心には暗い影があった。
自身の転職と、それに伴う環境の変化、そして人間関係のトラブル。
年収も大きく下がった。
それに対して、有名大企業で順調にキャリアを積む穂花にどこか劣等感を抱き、心の余裕のなさからつい辛く当たってしまう時期があったのだ。
 
妻の口から出た、上司の「奈良さん」という名前。自分のせいで家庭の空気が冷え切っていたかもしれない時期に、妻をこうして外へ連れ出し、生き生きとした笑顔を取り戻してくれた。
そんな見知らぬ男への、純粋な感謝が胸に広がる。
 
とはいえ、今の自分は転職したばかりでお金がない。
本格的なコースデビューや高いクラブの購入は、仕事が軌道に乗ってからだ。
心の中で素早く算盤を弾き、「まあ、一回千円程の打ちっぱなし程度なら、小遣いの範囲でやり繰りできるか」と打算的に考える。
 
それに、このゴルフは今の俺には良いきっかけだ。
最近は週末に二人でどう過ごすかを考えるのもなかなか大変だったが、これが選択肢の一つになる。
何より、劣等感を感じている今は、極力自分の転職や仕事の話を会話に上げたくない。
妻の気を逸らすための「格好の話題」としても、ゴルフはもってこいだった。
スマートフォンでさっそく近所に練習場がないかを検索し始めた妻の横顔を見つめながら、俺はそんなことを考えていた。