2-5.開戦 結(穂花視点)
奈良さんがゴルフクラブで事前会計をしている。
その後ろ姿を見ながら、私は考えていたことの成功を確信した。
奈良さんが見せたあの安堵の表情はまさに計算通り。
あの人が元上司としての責任感や、既婚者としての理性のブレーキでガチガチになっているのは分かっていた。
もっと私の前では自然体で、無防備でいて欲しい。そういう気持ちがあったからこそ、あえて家族のことをオープンに話したのだ。
もちろん、実家の両親が「行ってきなさい」と快諾してくれたのは嘘じゃない。
夫の彰将にだってちゃんと話をしている。
ただ、私は一時の過ちで終わる関係ではなく、今後も「細く永く」、奈良さんと二人きりでこうして会えるような特別な関係性を作りたいと考えていた。
だからこそ、あの人を100%安心させるための材料として、家族の存在を差し出したのだ。
一時間だけのシミュレーションゴルフの予約。
最初の頃の張り詰めたような緊張感は、もう奈良さんの顔には見えなかった。
「あはは!
奈良さん、全然ボールに当たりませんよ!!
これ、本当に難しいです!」
「はは、そんなに見事なのはかえってすごいね!」
「もう、笑わないでくださいよ!
奈良さんだって今、スイングの軸がブレてましたよ?」
画面のカメラ判定を見ながら、「どうしたら綺麗に当たるんだろう」と二人で頭を突き合わせて考える。
お互いにちゃんと前に飛んだのは、一時間の中でせいぜい二、三発程度だっただろう。
けれど、彼も私も、そんな結果に不満なんて微塵もなかった。
和気あいあいとした空気の中、本当に楽しくて仕方のない練習を終えた時、奈良さんがバッグを担ぎ直しながら笑顔で言ってくれる。
「楽しかったなぁ。
また行こうね、宮本さん。
次はもう少し上手になった姿を見せるよ。」
その言葉を、私は逃さなかった。
絶妙なタイミングで、ごく自然に次のステップへの言葉を紡ぐ。
「ですね!
あぁ、なんだかお腹空いちゃいましたね。
奈良さん、このまま軽くご飯行きません?」
「え? ああ、そうだね。
じゃあ近くのお店に行こうか。」
心のブレーキが完全に緩みきっている奈良さんは、今度は躊躇うこともなく頷いてくれた。
向かうのは、ここから車ですぐの場所にあるカフェ・オスピターレ。
そこは駐車場のスペースが限られていた。
だから、「車1台をゴルフクラブに置かせてもらって、一台に乗り合わせて行きましょう」と提案する。
私は助手席に滑り込んだ。
お店に向かう途中、きらびやかなネオンを放つラブホテルの前を通る瞬間があった。
一瞬、車内に張り詰めたような気まずい沈黙が流れる。
私はそれを振り払うように、わざと明るい声を出した。
「わあ、あのホテルの光、やけに眩しいですね。」
「あはは、本当だね。
ちょっと目がチカチカするよ。」
お互いに視線を逸らしながら、誤魔化すように笑い合う。
そんな小さな駆け引きさえも、胸の奥をチリチリと焦がすようで酷く心地よかった。
お洒落で落ち着いたオスピターレの店内に腰をかけ、食事はおすすめのオムライスをお願いする。
フロアは広かったが、お客さんは私たち以外で2組しかいなかった。
水を飲み、ひと心地落ち着くと、ゴルフの興奮冷めやらぬまま、会話はさらに大きな盛り上がりを見せた。
仕事のこと、趣味のこと、私のたわいもない話を、奈良さんはずっと楽しそうに聞いてくれている。
「あ、大変だよ宮本さん。
気づいたらもう24時だよ」
ふと時計を見た奈良さんが、急に不安そうな顔をして声を上げた。
「申し訳ない、会話が本当に楽しくて時間を忘れていたよ。
……家は大丈夫?
旦那さん、心配して怒ってない?」
私の家庭を本気で心配してくれる優しい人。
私はそんな彼の生真面目さを愛おしく思いながら、ふっと悪戯っぽく微笑んでみせた。
「大丈夫ですよ。
うちは私もですけど、夜型なんです。
だからこそ、あの頃毎朝6時にモーニングコールをお願いしてたんですよ?」
「そういえばそうだったね。」
昔の、あの途絶えてしまったモーニングコールの失敗を持ち出してからかうと、奈良さんは本当に困ったように顔を赤くして笑った。
彼が、今夜の食事をどう捉えたのかは分からない。ただの「元部下との楽しい息抜き」だと思っているのかもしれない。
けれど、帰り際に「また行こう」と次回の約束も自然にできた。
もう、最初の頃のような過剰な気遣いも、怯えるような警戒も、今の奈良さんからは消え去っている。
(次はお酒の席に誘ってみてもいいかもしれない)
助手席の窓の外、流れる夜景を見つめながら、私は心の中で静かに次の計画を練っていた。
私の張り巡らせた罠の中で、あの人は無意識ながら少しずつ、けれど確実に、私に近付いてくれている。
奈良さんがゴルフクラブで事前会計をしている。
その後ろ姿を見ながら、私は考えていたことの成功を確信した。
奈良さんが見せたあの安堵の表情はまさに計算通り。
あの人が元上司としての責任感や、既婚者としての理性のブレーキでガチガチになっているのは分かっていた。
もっと私の前では自然体で、無防備でいて欲しい。そういう気持ちがあったからこそ、あえて家族のことをオープンに話したのだ。
もちろん、実家の両親が「行ってきなさい」と快諾してくれたのは嘘じゃない。
夫の彰将にだってちゃんと話をしている。
ただ、私は一時の過ちで終わる関係ではなく、今後も「細く永く」、奈良さんと二人きりでこうして会えるような特別な関係性を作りたいと考えていた。
だからこそ、あの人を100%安心させるための材料として、家族の存在を差し出したのだ。
一時間だけのシミュレーションゴルフの予約。
最初の頃の張り詰めたような緊張感は、もう奈良さんの顔には見えなかった。
「あはは!
奈良さん、全然ボールに当たりませんよ!!
これ、本当に難しいです!」
「はは、そんなに見事なのはかえってすごいね!」
「もう、笑わないでくださいよ!
奈良さんだって今、スイングの軸がブレてましたよ?」
画面のカメラ判定を見ながら、「どうしたら綺麗に当たるんだろう」と二人で頭を突き合わせて考える。
お互いにちゃんと前に飛んだのは、一時間の中でせいぜい二、三発程度だっただろう。
けれど、彼も私も、そんな結果に不満なんて微塵もなかった。
和気あいあいとした空気の中、本当に楽しくて仕方のない練習を終えた時、奈良さんがバッグを担ぎ直しながら笑顔で言ってくれる。
「楽しかったなぁ。
また行こうね、宮本さん。
次はもう少し上手になった姿を見せるよ。」
その言葉を、私は逃さなかった。
絶妙なタイミングで、ごく自然に次のステップへの言葉を紡ぐ。
「ですね!
あぁ、なんだかお腹空いちゃいましたね。
奈良さん、このまま軽くご飯行きません?」
「え? ああ、そうだね。
じゃあ近くのお店に行こうか。」
心のブレーキが完全に緩みきっている奈良さんは、今度は躊躇うこともなく頷いてくれた。
向かうのは、ここから車ですぐの場所にあるカフェ・オスピターレ。
そこは駐車場のスペースが限られていた。
だから、「車1台をゴルフクラブに置かせてもらって、一台に乗り合わせて行きましょう」と提案する。
私は助手席に滑り込んだ。
お店に向かう途中、きらびやかなネオンを放つラブホテルの前を通る瞬間があった。
一瞬、車内に張り詰めたような気まずい沈黙が流れる。
私はそれを振り払うように、わざと明るい声を出した。
「わあ、あのホテルの光、やけに眩しいですね。」
「あはは、本当だね。
ちょっと目がチカチカするよ。」
お互いに視線を逸らしながら、誤魔化すように笑い合う。
そんな小さな駆け引きさえも、胸の奥をチリチリと焦がすようで酷く心地よかった。
お洒落で落ち着いたオスピターレの店内に腰をかけ、食事はおすすめのオムライスをお願いする。
フロアは広かったが、お客さんは私たち以外で2組しかいなかった。
水を飲み、ひと心地落ち着くと、ゴルフの興奮冷めやらぬまま、会話はさらに大きな盛り上がりを見せた。
仕事のこと、趣味のこと、私のたわいもない話を、奈良さんはずっと楽しそうに聞いてくれている。
「あ、大変だよ宮本さん。
気づいたらもう24時だよ」
ふと時計を見た奈良さんが、急に不安そうな顔をして声を上げた。
「申し訳ない、会話が本当に楽しくて時間を忘れていたよ。
……家は大丈夫?
旦那さん、心配して怒ってない?」
私の家庭を本気で心配してくれる優しい人。
私はそんな彼の生真面目さを愛おしく思いながら、ふっと悪戯っぽく微笑んでみせた。
「大丈夫ですよ。
うちは私もですけど、夜型なんです。
だからこそ、あの頃毎朝6時にモーニングコールをお願いしてたんですよ?」
「そういえばそうだったね。」
昔の、あの途絶えてしまったモーニングコールの失敗を持ち出してからかうと、奈良さんは本当に困ったように顔を赤くして笑った。
彼が、今夜の食事をどう捉えたのかは分からない。ただの「元部下との楽しい息抜き」だと思っているのかもしれない。
けれど、帰り際に「また行こう」と次回の約束も自然にできた。
もう、最初の頃のような過剰な気遣いも、怯えるような警戒も、今の奈良さんからは消え去っている。
(次はお酒の席に誘ってみてもいいかもしれない)
助手席の窓の外、流れる夜景を見つめながら、私は心の中で静かに次の計画を練っていた。
私の張り巡らせた罠の中で、あの人は無意識ながら少しずつ、けれど確実に、私に近付いてくれている。
