朝の徒花

2-3.試し矢

金曜日の朝。
デスクについて会社のビジネスチャットを立ち上げると、画面の右下に奈良さんからのメッセージが届いていた。
 
「この間の飲み会では「尊敬している」って言ってくれてありがとう。
そんな風に言われたことがなかったので嬉しかったです。
これからも宮本さんの信頼を裏切らないように頑張りますね。
ゴルフの件もまた都合を見つけて是非。」
 
貰ったチャットの文面が映る画面を見つめながら、私は小さく唇を尖らせた。
奈良さんからの言葉はいつも通り丁寧だった。
けれど、その丁寧さが、なぜか今の私には酷く余所余所しく感じられたのだ。
ゴルフの件だって「是非」と言いながら、「また都合を見つけて」だなんて、あからさまに消極的で逃げ腰なのが透けて見える。
 
(……なんか面白くない)
 
胸の奥が、チリチリと不満を訴える。
あの二次会の席で、面と向かって「最も尊敬している」という言葉を伝えるのに、私がどれほどの勇気を振り絞ったのかをこの人は何も分かっていない。

あの言葉にはこれっぽっちの嘘も社交辞令もない。奈良さんが裏で私を守るために奔走してくれたことを知って、自分の中で「この人が好きだ」とはっきりと自覚して以来、いつか必ず本人に伝えたいとずっと心に秘めていた言葉だった。

「好き」とは直接言えない。
私だって結婚しているし、奈良さんだって結婚している。
お互いに家庭がある身で、そんな一線を越える言葉が許されないことくらい分かっている。
だから、「尊敬」という言葉は、そんな私が既婚者という理性の網を潜り抜け、必死に捻り出せる最大の、そしてリスクを背負った「告白」だったのだ。
なんなら、私は今の夫ともマッチングアプリで知り合った。
全く人と付き合えず、二十歳の時にようやく出会った夫が、私にとって人生で初めての恋人だった。
これまで、自分から誰かに告白なんてしたこともない。
実質的に恋愛偏差値がボーダー以下の私が、生まれて初めてあんなに真っ直ぐに想いをぶつけたのだ。それなのに、こんな綺麗で安全な大人の言葉でいなされるなんて、やっぱりどうしても面白くなかった。
 
私は、画面のキーボードに指を置いた。
元上司としての安全地帯に閉じこもろうとするあの人をこちら側へ引きずり出すために、私は「試す」ことにした。
 
「ゴルフの打ちっぱなし、早速来週にでも行きたいですね!
でも、もしあの時のお話が半分冗談だったり、話を合わせるために誘っていただいたのなら、宮本のことは放っておいていいんですよ?」
 
送信ボタンを押す。
「放っておいていい」という、ちょっと突き放すような言葉。
あえてそういうメッセージを送ることで、優しいあの人がどう動くかを見極める。
先日までの落ち込んだ私を見守って、今も気遣わしげにちょくちょく声を掛けてくれる彼。
勝算はあるはず。
私なりの賭けだった。
 
ぴーん。
 
一分もしないうちに、通知音が鳴った。
 
「ごめん、話半分であの日誘ったわけじゃなかったんだ。
それじゃあ、来週行こうか。」
 
画面に表示された奈良さんの慌てたようなメッセージを見て、私は思わず小さく手に力を入れた。
口元から、抑えきれない笑みが零れ落ちる。
 
「……よし」
 
コンプラ意識が高くて、どこまでも優しい奈良さん。
だからこそ、私が「放っておいて」と拗ねてみせれば、絶対に放っておけずに焦って追いかけてくる。
私は、この静かなチャットの攻防で、完全に勝負に勝てたのだ。
 
「ありがとうございます!
来週、すごく楽しみにしていますね!」
 
弾むような指取りで返信を送りながら、私は胸の奥の渇きが、甘い優越感で満たされていくのを感じていた。
別に不倫をしたいとも、しようとも考えていない。
結婚してても「いいなぁ」と思える人はいるもんだ。
ただ、好きになった人と少しだけ、もうちょっとだけ距離感を縮めたい。
 
そんなふうに理性に押し込められていた欲が顔を出 し始めている。
直近では夫の冷めた応答にイラッとしていた。
でも、奈良さんと話すことで心の波を落ち着かせられている。
今の日常を過ごすためには奈良さんという緩和剤は必要不可欠なんだ。
 
そう考えると既婚者だという現実は、今の私には何の意味も持たなかった。