朝の徒花

2-2.苦悩

社長就任式の翌日は休日だった。
だが、ボクは朝から酷い二日酔いの頭痛に襲われ、リビングのソファに深く身体を沈めてぐったりとしている。
 
「パパ、大丈夫? はい、お水」
 
心配そうに覗き込んできた妻が、冷たい水の入ったコップを差し出してくれる。
 
「ありがとう……ちょっと昨日は飲みすぎちゃったよ。」
 
苦笑いしながら水を受け取る。
ボクと妻はお見合いで結婚した。
恋愛とは違ったけれど、いつも優しく明るい彼女と結婚して本当に良かったと思っている。
四人の子供が産まれてからは、育児という荒波を共に乗り越えてきた「戦友」になった。
だけど、家族としての深い愛情がある。

ボクは今、間違いなく幸せだ。
マイホームも昨年手に入れた。
守るべき大切な家庭がある。
これを壊したいなんて考えたこともないし、これっぽっちも思っていない。
それなのに、昨夜の出来事はいったい何だったのだろう。
 
コップを両手で抱え持ち、ボクは一人、昨夜の出来事を冷静に振り返る。
 
「奈良さんは、私が今までで最も尊敬している人なんです。」
 
潤んだ瞳で真っ直ぐにボクを見つめて紡がれた、あの言葉。
それは、ボクの41年の人生の中で間違いなく最大の賛辞だった。
仕事で「デキるね」と凄さを褒められたり、「いつもありがとう」と優しさを褒められたりすることはある。
社内で表彰されて評価されたことだってあった。

だけど、「尊敬」という言葉はそれらとは明らかにレベルが違う。
彼女のことで大層なことをしたつもりはなかった。
褒められたいと意識してやったことではない。
それなのに、彼女はボクのしてきたことにそれほどの信頼を寄せ、慕ってくれていた。
まず、そのことについては単純に指導者冥利に尽きると激しく感動した。
それだけじゃない。
彼女はボクの仕事の成果だけでなく、ボクという人間の人生そのものを、ボクの全てを最大限に評価してくれたのだ。
 
普段なら、お酒の席のおべっかやノリ、あるいは社交辞令程度に受け流していただろう。 
だけど、彼女に関してはそれができなかった。
昼間にホテルのロータリーで会った第三者である彼女のお母さんからも、全く同じ話を聞いていたからだ。
彼女自身の告白と、母親の言葉。
二つが重なったことで、あれが100%彼女の心からの真実の言葉なのだと確信できてしまった。
今まで、人から貰った言葉の中で、こんなに自分の存在を肯定され、嬉しかった瞬間が人生であっただろうか。
間違いなく、ボクの人生で最も嬉しい瞬間だった。
 
しかし、ボクの思考はそこで急ブレーキをかけられた。
思い出すのは、彼女のあの照れたように甘やかなイタズラを含んだ笑みだ。
あの瞬間、ボクの背筋に冷たいものが走った。
あれは、本当にただの「尊敬」の温度感だったのだろうか。
どうしても、そこにあからさまな「好意の色」を感じて、ドキマギしてしまう。
そうなると、直前まで「お母さんにあれだけ感謝されているんだから、純粋な謝恩(恩返し)でのお誘いなんだろう」と自分を納得させていたゴルフやラーメンの約束すら、すべて彼女の「好意からのアプローチ」のように思えてきてしまう。
 
(ボクの勘違いだろうか。
意識しすぎだ。
……いや、でも、もし本当にそうだとしたら、ボクはどうすればいい?)
 
既婚の男女として、これ以上踏み込むのは絶対に不味い。
だけど、彼女は今、ボクのアドバイスのおかげでようやく立ち直り、会社に来るのが楽しいと言ってくれているのだ。
ここで無碍に拒絶して、また彼女の心を潰してしまうような真似は、元上司として、何より一人の人間として絶対にできなかった。

一方で、「話しやすい部下」「教え甲斐のある女性」「可愛い後輩」と評価してきた彼女のことがこうして頭から離れない。
自分はいったいどうしてしまったんだろう。
彼女の扱いについてもどうしたらいいのか悩んでいる。
 
それに、もう行く約束はしてしまっているのだ。
答えの出ない問いのループが、頭痛と共にボクの脳内をぐるぐると駆け巡る。
 
「パパ、まだ顔が青いわよ?
本当に、よっぽど飲みすぎたんだねぇ。」
 
ソファで頭を抱えて唸り続けるボクの姿を見て、妻と、ドタバタとリビングを走り回っている子供たちが一緒になって笑っている。
いつもと変わらない、温かくて幸せな家族の風景。
その日常のど真ん中にいながら、ボクの心だけは昨夜の彼女の潤んだ瞳と甘い声の残像に、今も激しく囚われ続けていた。