1-16.プロポーズ
その後の社長就任式の式典と一次会の間、ボク達はそれぞ
れ別々に歓談をしながら時間いっぱいまでを過ごした。
大きな宴会が終わり、ボクたちは有志を募って行った二次会は、各部署ごとに分かれてこぢんまりとした居酒屋へ行く。
資材契約室の面々に混じり、ボクも懐かしい古巣の空気に浸った。
お酒が進み、席の移動や中座が重なって、居酒屋の座敷の一角で一瞬だけ、ボクと宮本さんの周りから人がいなくなる。
隣り合った席で、ボクは手元のグラスを見つめながら、声を落として彼女に話しかけた。
「宮本さん、……本当に、元気になったみたいで良かったよ。」
昼間のロータリーでお母様から聞いた話が、ずっと胸の奥に引っかかっていた。
ボクの想像以上に、彼女は追い詰められていたのだと知ったからこそ、目の前で微笑む彼女にその言葉を伝えずにはいられなかったのだ。
宮本さんは持っていたグラスをそっと机に置くと、ボクの方を真っ直ぐに見つめた。
少しお酒が入っているせいか、その大きな瞳は潤んでいて、いつもより近く感じる。
「奈良さん……本当にありがとうございました。」
彼女は小さく、けれど芯のある声で語り始めた。
「私、こうして会社に来るのが楽しいなって、最近また思えるようになりました。
……実はあの頃、自分でも気づかないうちに限界だったみたいで、よく涙が止まらない日があったんですよ。
何もないのに、帰りの車の中で一人で泣いたり。」「車で……?」
「はい。
それに、あの連休明けの日も……。
奈良さんから電話を受けた後、オフィスのトイレに駆け込んで大泣きしちゃったんです。
奈良さんの声を聞いたら、なんだかすごくホッとして、堰を切ったみたいに涙が溢れてきて……。
大変だったんですよ、トイレから出る時は目元を誤魔化さないとと思ってお化粧し直したりしたんですから。」
悪戯っぽく笑いながら告白する彼女の言葉の重みに、ボクの喉が小刻みに震えた。
ボクが電話の向こうで感じていた彼女の憔悴は、そんなレベルのものだったのか。
そして、ボクの声が彼女にとってそんなに大きな救いになっていたのかと、胸の奥が痛いほどに熱くなる。
宮本さんは少しはにかむように視線を落とし、それから決意を込めたような強い眼差しをボクに向けた。
「私、転職する前の会社も含めて、今まで出会った人たちの中で初めて思いました。
奈良さんは、私が今までで最も尊敬している人なんです。
本当ですよ。
だから、ありがとうございました。」
--最も尊敬している人--
その言葉の響きに、ボクは息を呑んだ。
こんなに最大級の褒め言葉は生まれて始めてだった。
今この時、勤め始めて管理者となってこんなに冥利に尽きる、人生最大の喜びを感じたことはない。
また、宮本さんのお母さんから聞いたお話もこの言葉に重みと信憑性を彩らせる。
尊敬という言葉は嘘や社交辞令ではなく、心から想い、勇気を出して話してくれたんだという事実をボクは深く噛み締めていた。
だが、彼女は丁寧に頭を下げ、顔を上げると今度はさっき見せたようなあの愛らしいイタズラな笑みを浮かべて言葉を繋いだ。
「だから……今度約束したゴルフや、例のラーメン、絶対に連れていってくださいね。
私、本当に楽しみにしているんですから。」
そう言って微笑む彼女の表情と、語尾の甘やかな響きに、ボクの心臓は今日一番の早鐘を打った。
(……これは、本当に『尊敬』の言葉なんだろうか)
彼女のお母さんから聞いて思い浮かべた「謝恩の誘い」という自分に都合のいい言い訳が、音を立てて崩れ去っていく。
真っ直ぐにボクを見つめる彼女の瞳の奥に、隠しきれない、そして明らかな「好意の色」を見てしまった気がした。
尊敬という綺麗な言葉でオブラートに包まれているけれど、その中にある熱い感情がボクの手のひらに直接触れたかのように生々しく伝わってくる。
先程の喜びと打って変わって、ボクの背筋に冷たいものが走った。
「あ……うん、そうだね、楽しみにしているよ。」
ボクは自分の声がわずかに上擦るのを止められず、激しくドキマギしながら、ただただ頷くことしかできなかった。
なんとなく、もう上司と部下の距離感には戻れない。
お互いにブレーキを踏みながらも、確実にアクセルが踏み込まれていく二人の関係の始まりを予感しながら、ボクは乱れる心音と喉がひりつくようなこの緊張を必死に隠そうと、もう一度氷だけになったグラスに手を伸ばした
モーニングコールで危惧した通りじゃないか。
でも、ボクにとって「最も尊敬している人です」という言葉は無視できないほど情熱的で甘い彼女からのプロポーズに思えた。
ボクはこの想いにどう応えるべきなんだろう。
その後の社長就任式の式典と一次会の間、ボク達はそれぞ
れ別々に歓談をしながら時間いっぱいまでを過ごした。
大きな宴会が終わり、ボクたちは有志を募って行った二次会は、各部署ごとに分かれてこぢんまりとした居酒屋へ行く。
資材契約室の面々に混じり、ボクも懐かしい古巣の空気に浸った。
お酒が進み、席の移動や中座が重なって、居酒屋の座敷の一角で一瞬だけ、ボクと宮本さんの周りから人がいなくなる。
隣り合った席で、ボクは手元のグラスを見つめながら、声を落として彼女に話しかけた。
「宮本さん、……本当に、元気になったみたいで良かったよ。」
昼間のロータリーでお母様から聞いた話が、ずっと胸の奥に引っかかっていた。
ボクの想像以上に、彼女は追い詰められていたのだと知ったからこそ、目の前で微笑む彼女にその言葉を伝えずにはいられなかったのだ。
宮本さんは持っていたグラスをそっと机に置くと、ボクの方を真っ直ぐに見つめた。
少しお酒が入っているせいか、その大きな瞳は潤んでいて、いつもより近く感じる。
「奈良さん……本当にありがとうございました。」
彼女は小さく、けれど芯のある声で語り始めた。
「私、こうして会社に来るのが楽しいなって、最近また思えるようになりました。
……実はあの頃、自分でも気づかないうちに限界だったみたいで、よく涙が止まらない日があったんですよ。
何もないのに、帰りの車の中で一人で泣いたり。」「車で……?」
「はい。
それに、あの連休明けの日も……。
奈良さんから電話を受けた後、オフィスのトイレに駆け込んで大泣きしちゃったんです。
奈良さんの声を聞いたら、なんだかすごくホッとして、堰を切ったみたいに涙が溢れてきて……。
大変だったんですよ、トイレから出る時は目元を誤魔化さないとと思ってお化粧し直したりしたんですから。」
悪戯っぽく笑いながら告白する彼女の言葉の重みに、ボクの喉が小刻みに震えた。
ボクが電話の向こうで感じていた彼女の憔悴は、そんなレベルのものだったのか。
そして、ボクの声が彼女にとってそんなに大きな救いになっていたのかと、胸の奥が痛いほどに熱くなる。
宮本さんは少しはにかむように視線を落とし、それから決意を込めたような強い眼差しをボクに向けた。
「私、転職する前の会社も含めて、今まで出会った人たちの中で初めて思いました。
奈良さんは、私が今までで最も尊敬している人なんです。
本当ですよ。
だから、ありがとうございました。」
--最も尊敬している人--
その言葉の響きに、ボクは息を呑んだ。
こんなに最大級の褒め言葉は生まれて始めてだった。
今この時、勤め始めて管理者となってこんなに冥利に尽きる、人生最大の喜びを感じたことはない。
また、宮本さんのお母さんから聞いたお話もこの言葉に重みと信憑性を彩らせる。
尊敬という言葉は嘘や社交辞令ではなく、心から想い、勇気を出して話してくれたんだという事実をボクは深く噛み締めていた。
だが、彼女は丁寧に頭を下げ、顔を上げると今度はさっき見せたようなあの愛らしいイタズラな笑みを浮かべて言葉を繋いだ。
「だから……今度約束したゴルフや、例のラーメン、絶対に連れていってくださいね。
私、本当に楽しみにしているんですから。」
そう言って微笑む彼女の表情と、語尾の甘やかな響きに、ボクの心臓は今日一番の早鐘を打った。
(……これは、本当に『尊敬』の言葉なんだろうか)
彼女のお母さんから聞いて思い浮かべた「謝恩の誘い」という自分に都合のいい言い訳が、音を立てて崩れ去っていく。
真っ直ぐにボクを見つめる彼女の瞳の奥に、隠しきれない、そして明らかな「好意の色」を見てしまった気がした。
尊敬という綺麗な言葉でオブラートに包まれているけれど、その中にある熱い感情がボクの手のひらに直接触れたかのように生々しく伝わってくる。
先程の喜びと打って変わって、ボクの背筋に冷たいものが走った。
「あ……うん、そうだね、楽しみにしているよ。」
ボクは自分の声がわずかに上擦るのを止められず、激しくドキマギしながら、ただただ頷くことしかできなかった。
なんとなく、もう上司と部下の距離感には戻れない。
お互いにブレーキを踏みながらも、確実にアクセルが踏み込まれていく二人の関係の始まりを予感しながら、ボクは乱れる心音と喉がひりつくようなこの緊張を必死に隠そうと、もう一度氷だけになったグラスに手を伸ばした
モーニングコールで危惧した通りじゃないか。
でも、ボクにとって「最も尊敬している人です」という言葉は無視できないほど情熱的で甘い彼女からのプロポーズに思えた。
ボクはこの想いにどう応えるべきなんだろう。
