1-14.迷い
翌朝、高速道路を走らせていつも通り一時間かけて出勤した。
事務所のデスクについたボクは、PCを立ち上げて社内システムにログインする。
朝一番、画面の右下にポップアップしたビジネスチャットの通知に、思わず目が留まった。
送り主は、宮本穂花さんだ。
「昨日は本当にありがとうございました。
ごちそうさまでした!
すごく楽しかったです。」
律儀なお礼の言葉に、昨夜のラーメン屋での時間がふわりと脳裏に蘇る。
18時半に店に入ったはずなのに、気づけば22時前になっていた。
あんなに時間を忘れて話し込んだのは、いつ以来だろう。
部署の仕事を楽しそうに話す彼女の姿に心底安心したし、ボク自身、驚くほど救われるような時間だった。
ボクが小さく笑みをこぼしながらメッセージを読んでいると、チャットはそのまま次の文章へと続いている。
「追伸:ゴルフを始める時は連絡くださいね?
抜け駆けでのコースデビューは禁止ですからね!」「ふっ……。」
思わず、誰も聞いていないオフィスで声を出して笑ってしまった。
抜け駆け禁止、か。
昨夜の会話から続く勢いとはいえ、あの真面目な宮本さんがこんな風にちょっと拗ねたようなイタズラっぽい冗談をテキストで送ってくるなんて。
画面の向こうで彼女がどんな表情でこれを打ち込んだのかを想像すると、胸の奥がくすぐったい。
「本当に元気を取り戻せたみたいだね。」
先月までの痛々しさはもう感じられない。
持ち前の大輪の花のような笑顔と明るさを取り戻せたように思える。
それに、今の彼女には以前やり取りしていたモーニングコールの頃のような打ち解けた感じも帰ってきた。
ボクは暖かい気持ちと懐かしい記憶にひたりつつ、早速返事をしようとキーボードを叩く。
「昨日はお疲れ様、こちらこそ楽しかったよ。
ゴルフの件、了解です。
ちゃんと宮本先生に許可を取ってから始めるようにするね。」
そこまで打って、少し考えてから、昨夜の彼女の笑顔を思い出してもう一文付け足す。
「またいつでも息抜きに相談してね。」
元上司としての、安全で、綺麗に一線を引いた大人の返し。
これでいいかな、と確認して送信ボタンを押した。
すると、一分もしないうちに通知の表示アイコンが点滅した。
「ありがとうございます!
それと実は昨日、帰り道にすごく気になる面白いお店を見つけたんです。
ちょっと変わった佇まいで、隠れ家みたいで。」
「へえ、どこだろう?」
「はい! 調べてみたらすごく美味しそうで。
ラーメン龍ってお店なんですが、奈良さん、知ってますか?」
「あぁ!農免道沿いの?
確かにあった!
ボクも通る度に気になってたけどいつも開いてないんだよね。」
「そこです!
今度もし良かったら、ここに行ってみませんか?」
「いいね、ボクも行ってみたい。
じゃあ、今度またこっちの事務所に来る予定がある時にでもそこに行こうか。」
画面に表示された「行ってみませんか?」という文字に、一瞬躊躇して手が止まった。
冷静に考えると業務の延長線上やコミュニケーションでも既婚の男女が二人きりで食事に行くのは不味いと思う。
しかし、今まさに元気を取り戻しつつある彼女に水を差すように拒絶するのもどうかとも考え、ボクは勢いのまま「行こうか」と返信していた。
業務の用事でもない。
ラーメンとはいえ彼女からの純粋な、プライベートな食事の誘いに思わず意識してしまった。
意識し過ぎだろう。
チャット一つで驚きと勘ぐりをしてしまったボクはなんて狭量なんだろうと溜息をつき、思わずネクタイの結び目を少し緩める。
「行こうか」と言いながら「今度また」と玉虫色の枕詞をつけた返信、これが既婚男性としての精一杯の防衛線だった。
あくまで「業務のついで」という枠の中に、彼女の提案を収めようとしたのだ。
だが、宮本さんの次の返信はボクのそんな浅はかな防衛線を、鮮やかに、そして大胆に飛び越えてきた。
「それが、調べてみたら平日の昼しか営業していないらしくて……。」
平日の昼のみ。
ボクは思わず腕を組んだ。
「平日の昼間だけなのかぁ。
だからいつも開いてなかったんだね。
昼だとさすがに事業所を抜けて行くわけにはいかないから、わざわざ半日休でも取らないとちょっと行くのは難しいかなぁ。」
苦笑交じりに、現実的なハードルの高さを伝える。暗に「だから難しいね」と、この話を終わらせるための言葉だった。
だが、すぐに返ってきた彼女の言葉を読んだ瞬間、ボクは頭を殴られたような衝撃を覚え、画面を凝視した。
「じゃあ、半日休を取って行きましょう。
私は有給休暇を大切にするタイプじゃないのでご提案に乗らせてください!」
ーー半日休を取って行きましょう。ーー
その文字が、脳内で何度もリフレッシュされる。
彼女は今、業務のためではなく、ボクと二人でその店に行くためだけにわざわざ有給を使おうと言っているのだ。
しかも、ボクが提案した形というのも断わりづらい。
どういう意図なんだろう?
チャットというオフィシャルなツールの冷たいフォントの向こうから、ボクは誰かに何かを試されているんじゃないかと狼狽えてしまった。
有給を取って、二人きりで、平日の昼間に会う。
既婚の男女がそれはダメだろ、と理性が叫ぶ。
けれど、立ち直っている途中の彼女を拒絶出来ない。
ボクは問題を先送りにするしかなかった。
「次来る時が決まったら、またどうするか話そうか。」
翌朝、高速道路を走らせていつも通り一時間かけて出勤した。
事務所のデスクについたボクは、PCを立ち上げて社内システムにログインする。
朝一番、画面の右下にポップアップしたビジネスチャットの通知に、思わず目が留まった。
送り主は、宮本穂花さんだ。
「昨日は本当にありがとうございました。
ごちそうさまでした!
すごく楽しかったです。」
律儀なお礼の言葉に、昨夜のラーメン屋での時間がふわりと脳裏に蘇る。
18時半に店に入ったはずなのに、気づけば22時前になっていた。
あんなに時間を忘れて話し込んだのは、いつ以来だろう。
部署の仕事を楽しそうに話す彼女の姿に心底安心したし、ボク自身、驚くほど救われるような時間だった。
ボクが小さく笑みをこぼしながらメッセージを読んでいると、チャットはそのまま次の文章へと続いている。
「追伸:ゴルフを始める時は連絡くださいね?
抜け駆けでのコースデビューは禁止ですからね!」「ふっ……。」
思わず、誰も聞いていないオフィスで声を出して笑ってしまった。
抜け駆け禁止、か。
昨夜の会話から続く勢いとはいえ、あの真面目な宮本さんがこんな風にちょっと拗ねたようなイタズラっぽい冗談をテキストで送ってくるなんて。
画面の向こうで彼女がどんな表情でこれを打ち込んだのかを想像すると、胸の奥がくすぐったい。
「本当に元気を取り戻せたみたいだね。」
先月までの痛々しさはもう感じられない。
持ち前の大輪の花のような笑顔と明るさを取り戻せたように思える。
それに、今の彼女には以前やり取りしていたモーニングコールの頃のような打ち解けた感じも帰ってきた。
ボクは暖かい気持ちと懐かしい記憶にひたりつつ、早速返事をしようとキーボードを叩く。
「昨日はお疲れ様、こちらこそ楽しかったよ。
ゴルフの件、了解です。
ちゃんと宮本先生に許可を取ってから始めるようにするね。」
そこまで打って、少し考えてから、昨夜の彼女の笑顔を思い出してもう一文付け足す。
「またいつでも息抜きに相談してね。」
元上司としての、安全で、綺麗に一線を引いた大人の返し。
これでいいかな、と確認して送信ボタンを押した。
すると、一分もしないうちに通知の表示アイコンが点滅した。
「ありがとうございます!
それと実は昨日、帰り道にすごく気になる面白いお店を見つけたんです。
ちょっと変わった佇まいで、隠れ家みたいで。」
「へえ、どこだろう?」
「はい! 調べてみたらすごく美味しそうで。
ラーメン龍ってお店なんですが、奈良さん、知ってますか?」
「あぁ!農免道沿いの?
確かにあった!
ボクも通る度に気になってたけどいつも開いてないんだよね。」
「そこです!
今度もし良かったら、ここに行ってみませんか?」
「いいね、ボクも行ってみたい。
じゃあ、今度またこっちの事務所に来る予定がある時にでもそこに行こうか。」
画面に表示された「行ってみませんか?」という文字に、一瞬躊躇して手が止まった。
冷静に考えると業務の延長線上やコミュニケーションでも既婚の男女が二人きりで食事に行くのは不味いと思う。
しかし、今まさに元気を取り戻しつつある彼女に水を差すように拒絶するのもどうかとも考え、ボクは勢いのまま「行こうか」と返信していた。
業務の用事でもない。
ラーメンとはいえ彼女からの純粋な、プライベートな食事の誘いに思わず意識してしまった。
意識し過ぎだろう。
チャット一つで驚きと勘ぐりをしてしまったボクはなんて狭量なんだろうと溜息をつき、思わずネクタイの結び目を少し緩める。
「行こうか」と言いながら「今度また」と玉虫色の枕詞をつけた返信、これが既婚男性としての精一杯の防衛線だった。
あくまで「業務のついで」という枠の中に、彼女の提案を収めようとしたのだ。
だが、宮本さんの次の返信はボクのそんな浅はかな防衛線を、鮮やかに、そして大胆に飛び越えてきた。
「それが、調べてみたら平日の昼しか営業していないらしくて……。」
平日の昼のみ。
ボクは思わず腕を組んだ。
「平日の昼間だけなのかぁ。
だからいつも開いてなかったんだね。
昼だとさすがに事業所を抜けて行くわけにはいかないから、わざわざ半日休でも取らないとちょっと行くのは難しいかなぁ。」
苦笑交じりに、現実的なハードルの高さを伝える。暗に「だから難しいね」と、この話を終わらせるための言葉だった。
だが、すぐに返ってきた彼女の言葉を読んだ瞬間、ボクは頭を殴られたような衝撃を覚え、画面を凝視した。
「じゃあ、半日休を取って行きましょう。
私は有給休暇を大切にするタイプじゃないのでご提案に乗らせてください!」
ーー半日休を取って行きましょう。ーー
その文字が、脳内で何度もリフレッシュされる。
彼女は今、業務のためではなく、ボクと二人でその店に行くためだけにわざわざ有給を使おうと言っているのだ。
しかも、ボクが提案した形というのも断わりづらい。
どういう意図なんだろう?
チャットというオフィシャルなツールの冷たいフォントの向こうから、ボクは誰かに何かを試されているんじゃないかと狼狽えてしまった。
有給を取って、二人きりで、平日の昼間に会う。
既婚の男女がそれはダメだろ、と理性が叫ぶ。
けれど、立ち直っている途中の彼女を拒絶出来ない。
ボクは問題を先送りにするしかなかった。
「次来る時が決まったら、またどうするか話そうか。」
