1-13.誘い
出張当日、奈良さんのいる事業所のオフィスで、私は完璧に「元部下」としての役割に徹した。
「宮本さん、データの照合、どうだった?」
「はい、問題ありません。
ご準備ありがとうございました。」
会議机を挟み、資料を指差しながら淡々と会話を交わす。
久しぶりに間近で見る奈良さんの姿に、私の心臓は朝からずっとうるさいほど高鳴っていた。
人事を動かし、戸川室長に直談判までして私を守ってくれた人。
その圧倒的な事実を胸の奥に秘め、つい視線が泳ぎそうになるのを必死に堪えて、昼間は完全にビジネスライクな態度を貫いた。
「じゃあ、予定通りラーメン行く?
ボクの車についてきて。」
定時を過ぎ、それぞれの車で向かったのは少し寂れたバイパス沿いにある味のあるラーメン屋だった。
店に入った私達は奥の小さな座敷席に腰を下ろす。
湯気と共に運ばれてきた温かいラーメンを啜りながら、昼間の緊張がようやく解けていくのが分かった。
「最近、部署の方はどう?
戸川さん、相変わらず細かい?」
「ふふ、そうなんです。
でも、業務を減らしていただいてからは周りの方もすごくサポートしてくださって……。」
奈良さんは相変わらず聞き上手だった。
私が最近の業務のことや、部署内のちょっとした笑い話を生き生きと話すのを、相槌を打ちながら優しく受け止めてくれる。
今日はあくまでも会社のことや自分の趣味について話をすることにした。
家に置いてきた家庭での不満や、夫の転職に関する愚痴なんて、この温かい空間には一切持ち込みたくないと思った。
せっかくの特別な時間を、そんな会話で汚したくなかったのだ。
それに、「これは恋ではなく、尊敬だ」と自分に言い聞かせている理性が、これ以上プライベートに踏み込んで甘えるなとブレーキをかけている。
ひとしきり仕事の話が終わると、会話は他愛のない雑談へと移っていった。
「そういえば、奈良さんは今度の社長就任式の飲み会には行くんですか?」
「うーん、毎週水曜日は子供の塾迎えもあるから今回は悩むところだけど……でも、一応参加する方向で調整しようと思っているよ。
宮本さんは行くの?」
「はい、参加する予定ですよ。」
参加する、という奈良さんの言葉に、胸の奥が少しだけ明るくなる。
会社の人たちを交えてだとしても、会える機会がある。
それだけで嬉しかった。
奈良さんはラーメンのスープを少しすすると、ふと思い出したように苦笑いを浮かべた。
「実はさ、最近新しい事業所でゴルフに誘われているんだ。
上の人からも『こっちの地区にいるなら必要だぞ』って言われるんだけど、ボク、今までやったことがなくて。
ちょっと躊躇してるんだよね。」
「えっ、奈良さんがゴルフですか?」
意外な話題に、私は少し目を丸くした。
あの完璧で仕事のデキる奈良さんが、未経験のスポーツを前にして「困ったな」というように眉を下げている。
その少し困ったような表情が、なんだか私にだけ見せてくれた秘密の顔のようで、たまらなく愛おしく思えてしまう。
「宮本さんは、ゴルフとかやらないの?」
「私は……全然、やったことないですね」
「あはは、そうだよね。
打ちっぱなしから、と思うけど下手くそが並んで打っていると恥を晒しているようでどうしても及び腰になるんだ。
なかなか気が乗らなくて…どうしようかなぁ。」
「それはいつか私も求められそうですね……。
そうだ!それなら始める時は一緒に始めますか?
お互い受けるダメージが半減しますよ。」
「それは妙案だね!」
そんな風に、行き先のない、けれど心地のいい言葉のキャッチボールを続けた。
「あ……」
ふと、壁に掛けられた古い時計が目に留まり、私は息を呑んだ。
時針はすっかり進み、夜の22時前を指していた。
「すみません、私、つい話しすぎてしまって……。」「いや、ボクの方こそ驚いたな。
気づいたらこんな時間だ。」
奈良さんは少し照れたように笑い、穏やかなトーンで言葉を続けた。
「でも、宮本さんがすっかり元気になったようで本当に良かったよ、ボクも安心した。
それじゃあ、明日も仕事だし、今日はここまで。」
「……はい、そうですね。」
奈良さんの言葉は、どこまでも優しく、そして綺麗に「元上司と部下」の枠に収まっていた。
楽しかった、元気になって良かった。
そんな、温かいけれどどこか一線を引いた温度感で、彼はこの時間を美しく終わらせようとしている。
お会計を済ませ、駐車場へ出る。
夜風が火照った頬に冷たくて心地よかった。
「じゃあ、気をつけて帰るんだよ。」
「はい。奈良さんも、運転気をつけてください。」
それぞれの車に乗り込み、奈良さんの車のテールランプが遠ざかっていくのを見つめる。
(……もう少し、話したかったな)
ハンドルを握る手に自然と力がこもる。
奈良さんは満足してくれたかもしれない。
けれど、私の胸に残ったのは、満たされた幸福感と同じくらい大きな、切ない渇きだった。
もっと一緒にいたい。
もっとたくさん、色んな話をしたい。
もっと、二人の機会があればいいのに――。
「尊敬」という言葉ではもう抑え込みきれないほどの強い執着が、暗い車内で、静かに、けれど確実に膨んでいくのを私は感じていた。
出張当日、奈良さんのいる事業所のオフィスで、私は完璧に「元部下」としての役割に徹した。
「宮本さん、データの照合、どうだった?」
「はい、問題ありません。
ご準備ありがとうございました。」
会議机を挟み、資料を指差しながら淡々と会話を交わす。
久しぶりに間近で見る奈良さんの姿に、私の心臓は朝からずっとうるさいほど高鳴っていた。
人事を動かし、戸川室長に直談判までして私を守ってくれた人。
その圧倒的な事実を胸の奥に秘め、つい視線が泳ぎそうになるのを必死に堪えて、昼間は完全にビジネスライクな態度を貫いた。
「じゃあ、予定通りラーメン行く?
ボクの車についてきて。」
定時を過ぎ、それぞれの車で向かったのは少し寂れたバイパス沿いにある味のあるラーメン屋だった。
店に入った私達は奥の小さな座敷席に腰を下ろす。
湯気と共に運ばれてきた温かいラーメンを啜りながら、昼間の緊張がようやく解けていくのが分かった。
「最近、部署の方はどう?
戸川さん、相変わらず細かい?」
「ふふ、そうなんです。
でも、業務を減らしていただいてからは周りの方もすごくサポートしてくださって……。」
奈良さんは相変わらず聞き上手だった。
私が最近の業務のことや、部署内のちょっとした笑い話を生き生きと話すのを、相槌を打ちながら優しく受け止めてくれる。
今日はあくまでも会社のことや自分の趣味について話をすることにした。
家に置いてきた家庭での不満や、夫の転職に関する愚痴なんて、この温かい空間には一切持ち込みたくないと思った。
せっかくの特別な時間を、そんな会話で汚したくなかったのだ。
それに、「これは恋ではなく、尊敬だ」と自分に言い聞かせている理性が、これ以上プライベートに踏み込んで甘えるなとブレーキをかけている。
ひとしきり仕事の話が終わると、会話は他愛のない雑談へと移っていった。
「そういえば、奈良さんは今度の社長就任式の飲み会には行くんですか?」
「うーん、毎週水曜日は子供の塾迎えもあるから今回は悩むところだけど……でも、一応参加する方向で調整しようと思っているよ。
宮本さんは行くの?」
「はい、参加する予定ですよ。」
参加する、という奈良さんの言葉に、胸の奥が少しだけ明るくなる。
会社の人たちを交えてだとしても、会える機会がある。
それだけで嬉しかった。
奈良さんはラーメンのスープを少しすすると、ふと思い出したように苦笑いを浮かべた。
「実はさ、最近新しい事業所でゴルフに誘われているんだ。
上の人からも『こっちの地区にいるなら必要だぞ』って言われるんだけど、ボク、今までやったことがなくて。
ちょっと躊躇してるんだよね。」
「えっ、奈良さんがゴルフですか?」
意外な話題に、私は少し目を丸くした。
あの完璧で仕事のデキる奈良さんが、未経験のスポーツを前にして「困ったな」というように眉を下げている。
その少し困ったような表情が、なんだか私にだけ見せてくれた秘密の顔のようで、たまらなく愛おしく思えてしまう。
「宮本さんは、ゴルフとかやらないの?」
「私は……全然、やったことないですね」
「あはは、そうだよね。
打ちっぱなしから、と思うけど下手くそが並んで打っていると恥を晒しているようでどうしても及び腰になるんだ。
なかなか気が乗らなくて…どうしようかなぁ。」
「それはいつか私も求められそうですね……。
そうだ!それなら始める時は一緒に始めますか?
お互い受けるダメージが半減しますよ。」
「それは妙案だね!」
そんな風に、行き先のない、けれど心地のいい言葉のキャッチボールを続けた。
「あ……」
ふと、壁に掛けられた古い時計が目に留まり、私は息を呑んだ。
時針はすっかり進み、夜の22時前を指していた。
「すみません、私、つい話しすぎてしまって……。」「いや、ボクの方こそ驚いたな。
気づいたらこんな時間だ。」
奈良さんは少し照れたように笑い、穏やかなトーンで言葉を続けた。
「でも、宮本さんがすっかり元気になったようで本当に良かったよ、ボクも安心した。
それじゃあ、明日も仕事だし、今日はここまで。」
「……はい、そうですね。」
奈良さんの言葉は、どこまでも優しく、そして綺麗に「元上司と部下」の枠に収まっていた。
楽しかった、元気になって良かった。
そんな、温かいけれどどこか一線を引いた温度感で、彼はこの時間を美しく終わらせようとしている。
お会計を済ませ、駐車場へ出る。
夜風が火照った頬に冷たくて心地よかった。
「じゃあ、気をつけて帰るんだよ。」
「はい。奈良さんも、運転気をつけてください。」
それぞれの車に乗り込み、奈良さんの車のテールランプが遠ざかっていくのを見つめる。
(……もう少し、話したかったな)
ハンドルを握る手に自然と力がこもる。
奈良さんは満足してくれたかもしれない。
けれど、私の胸に残ったのは、満たされた幸福感と同じくらい大きな、切ない渇きだった。
もっと一緒にいたい。
もっとたくさん、色んな話をしたい。
もっと、二人の機会があればいいのに――。
「尊敬」という言葉ではもう抑え込みきれないほどの強い執着が、暗い車内で、静かに、けれど確実に膨んでいくのを私は感じていた。
