朝の徒花

1-12.家族

面談を終えて自席に戻り、定時を迎えるまでの時間は、正直に言って仕事どころではなかった。
胸の奥が熱くて、痛いほどに高鳴っている。
奈良さんはずっと、私の知らないところで私を守るために奔走してくれていた。
その事実を知った興奮と、溢れ出しそうなこの感情を、誰かに、今すぐ誰かに話したかった。

「ただいま」

その夜、帰宅した夫に、私は夕食のテーブルを挟んで夢中で今日の出来事を話した。
私の知らないところで元上司が人事にまで掛け合ってくれて、業務を外してくれたんだ、と。
けれど、私の熱量に対する夫の反応は、あまりにも冷ややかだった。
 
「へえ、良かったね。
仕事量を見直してくれるなんて、いい会社じゃん」

夫はビールを喉に流し込みながら、他人事のようにそう言った。
違う、そうじゃない。
会社が自発的に動いてくれたんじゃない。
奈良さんが、あの人が必死に色んな人に掛け合い、周りを動かしてくれたからなのに。
夫の中で奈良さんのしてくれたことが、すべて「会社」という大きな枠組みに回収されているのが、たまらなく不快でイラッとした。

私の不満を察する様子もなく、夫は箸を置き、どこか投げやりなトーンで言葉を続けた。
 
「……ま、お前が落ち着いたなら良かったよ。
実はさ、俺、今の会社でちょっと人間関係が上手くいってなくて。
だから、今のところ退職して、転職活動を始めようと思うんだよね。」

唐突な告白に、私は息を呑んだ。
それと同時に、胸の奥からどす黒い感情がせり上がってくるのを止められなかった。
私が本当に辛くて、会社を辞めたいと泣きそうになっていたとき、この人は「大丈夫?」と形ばかりの薄っぺらい言葉しかくれなかった。
私の悩みに寄り添おうともしなかった。
それなのに、自分は少し人間関係が上手くいかないだけで我慢もせず、あっさりと「会社を辞める」と言い出す。

どこまで自分本位な人なんだろう。
 
目の前にいる夫が、急にひどく身勝手で、頼りない人間に見えた。
冷めていく心を隠すように「そうなんだ……」とだけ返し、私は逃げるように自室へ籠った。

どうしても心が収まらず、今度は実家の母親に電話をかけた。
母は、私が4月から新しい環境でキャパオーバーになり、ボロボロになっていた姿を誰よりも心配して知っている人だった。

「お母さん、実はね……」

今日、人事や戸川室長から聞いた奈良さんの話を、今度は堰を切ったようにすべて話した。
すると、受話器の向こうで母は「まあ……!」と声を弾ませ、自分のことのように大喜びしてくれた。

「奈良さんって、本当に素敵な、いい人ねえ!
もう自分の部下じゃないのに、そこまで穂花のことを考えて動いてくれるなんて……。
そんな人が元とはいえ上司でいてくれて、本当によかったね。
お母さん、それを聞いて本当に安心したわ。」

娘が孤立して潰れかけていた実情を知っているからこそ、母は奈良さんの素晴らしさを、これ以上ないほどに褒めちぎってくれた。
 
『本当に素敵な人ね』

母のその言葉を聞いた瞬間、私の胸にじわリと熱いものがにじんだ。
不思議だった。
褒められているのは私ではなく奈良さんなのに、まるで自分のことのように嬉しくて、誇らしくて、胸がいっぱいになる。
 
夫への幻滅と、母親の言葉によってさらに引き立つ奈良さんの圧倒的な存在感。
私の中の「奈良さんへの好意」は、もう言い訳のできないほどの確かな輪郭を持って、私自身を支配し始めていた。
 
ただ、私自身もそうだが、相手も既婚者だ。
だから、この好意は「恋」とかではないだろう。
あくまでも尊敬の気持ちなんだと私は自分に言い聞かせていた。