透明になった。いや、なってしまった

目が覚めると、視界に見覚えのあるジプトーン塗装の天井が目に飛び込んできた。
「何時……だ?」
手を宙に滑らせても手の届く範囲にスマホがない、アラームが鳴ってないということは早朝だろうか。そんな希望的観測を頭で否定し、ふらふらと立ち上がりながらスマホを探す。ベッドの下に転がるスマホを拾い上げ、電源を入れる。画面の時刻は午後二時を回っていた。二日酔いの頭痛に加えて、肘と肩も痛むし、寝汗で背中はぐっしょりと濡れている。最悪の気分だ。乱れた後ろ髪を掻きながら風呂に向かう。
 シャワーに打たれ意識がはっきりするにつれ、徐々に昨晩のことを思い出してきた。酒に酔い、部屋を一度間違えながら自力で部屋に戻ったはずだ。
 ただ、やはり酒というものは恐ろしい。昨日、女性に話しかけられた妄想が本物の記憶のように頭にこびりついてる。酒は妄想すら現実のように感じさせるらしい。
 風呂から上がり、なんの気無しに玄関に目をやるとペットボトルの水が二本、並んで置かれていた。緑のキャップに透明なボトルに入った普通の水、アパートの下の自販機にも売っているやつだ。水を拾い上げ、まさかな、と言い聞かせるように呟く。
 俺は病気なんだ。そんなこと、あるわけがない、ありえないんだ。
 期待しそうになるのを諌める自分とは裏腹に、光に手を伸ばそうとする自分もいるようで、気づけば隣の部屋の呼び鈴を鳴らしていた。一度目は反応がなかったので、二度目を鳴らし、三度目をためらっているところで奥から足音が聞こえ始めた。胸の高鳴りを抑え、深呼吸して待っていた。ただ、それは徒労に終わった。いくら待っても、昨晩聞いたドアの音を聞くことは叶わなかった。
 どれくらいの時間、ドアの前に立ち尽くしていたかわからない。緊張で震えていた足は自重に耐えきれずへたりこんでしまった。ドクドクと心臓が音を立て、耳の奥に響く。両手は小刻みに震えていて、視界が歪む。
 夕方になり、落ち着きを取り戻した俺は自分の部屋に戻っていた。それから俺は、特に何もせず病人らしく生きいた。定期的にスーパーに行き、食料をとってきて、家のベッドの上で本を読んで過ごしてるうちに夏が終わった。
 青い葉が朱色に染まり始めた頃には、ベランダに行くことが癖になっていた。いつものようにベランダに立ち、スマホを見ていると『未知の病消失症。ついに日本で五人目の犠牲者か』というタイトルのネットニュースが飛び込んできた。記事を眺めていると左から、ベランダに誰かがやってくる音が聞こえた。確証はなかったが、なんとなく彼女だと思った。
 何を思ったのか、気づけば俺は、彼女に話しかけていた。
「どうせあんたには聞こえてないと思うけど、少し前、あんたのせいでひどく落ち込んだんだ。ドアの前で、あんたが出てくるのを待ってたんだよ。しばらく待ってもあんたは出てこなかった。ショックで動けなくなっちてさ、最悪の気分だった。あんたが出て来てくれさえすれば俺は救われたかもしれない。ちょうど今日、ネットニュースになってる病気あるだろ?俺も同じ病気なんだよ。人に認識されなくなる、孤独の病だ」
 当然返事など返ってこない。まっすぐ前を向く彼女の髪が風で揺れるだけ。それをいいことに俺は手すりに手を置き、身体を乗り出しながら話を続けた。後ろに人がいたら、バカなことはやめろと止められていただろうな。
「そんなことをしたのは、あんたに話しかけられる夢を見たからなんだ。酔っ払ってあんたの部屋の前で寝てる俺に、あんたが話しかけてくる夢だ。正直期待した、治ってなくとも、見える人が現れたと思った。でもバカだよな、奇病専門病院の人すら、俺をわからなくなったのに、あんたに期待するなんて」
 乾いた空気の中、久しぶりに口を開いたせいで口は酷く乾き、唾を飲み込むのも辛かった。
「なぁ、考えたことあるか?周りの人間に、それまで普通だった人に突然、居ないものとして扱われること。正確には『扱われる』じゃなくて、本当にいないんだけどな」
 それから俺は口が乾いて、喉の奥の水分がなくなって喋れなくなるまで、話し続けた。口の乾きが限界に達し、酸欠で頭痛と眩暈がし始め、部屋に入ろうとした時、誰かの声が鼓膜を揺らした。
「なんででしょうね」 
 なんの脈絡もなく宙に吐きだされたその言葉は久しく聞いてなかった、紛れもない、俺に向けられた言葉だった。
 柵に向かって飛びつくように振り返り、さっきまでと同じように相手の方向に身を乗り出した。柵がガシャンという音を立てて揺れる。
「やっぱり見えるのか?」
 興奮し、肩で呼吸しながら何度も確認するように聞く俺に、彼女は当たり前のことを聞かれた時のような口調で「見えます」と言った。相手からしたら当たり前なのだからしょうがないのだが、それにしても酷い温度差だ。今度は安堵感でしゃがみ込みそうになるのを必死に堪え、続け様に「なんで見えるんだ?」と聞いた。さっきと同じ口調で「知りません」と彼女は言った。医者でも知らない答えを彼女に求めてもしょうがないのだが、それを聞くことばかり考えてた俺は会話に詰まってしまった。口を閉じた俺に、今度は彼女が口を開いた。
「名前、なんですか?」
 乾いた空気と同調するような、さっぱりとした声だった。
 そこで初めて、自分が名乗っていないことと、興奮でタメ口になっていたことに気がつき、頭と耳が熱くなる。
「高坂……です」
「下は?」
「賢吾です」
 彼女は名前を聞くなりスマホの画面を操作し出した。それから「本当に出てきた」と言った。どういうことか聞くと、どうやら消失症にかかった患者の情報がネットに流れてるらしい。どこから流れたのか想像もつかない。
「いつから病気に?」
「大学三年のころ、突然」
「どういう症状なんですか?体調とかは」
「気分が悪くなるとかはないです。経験上、認識されなくなるだけです」
 興味津々というわけではないが、未知の生物と会話できるからやっているというような調子で質問してくる彼女に、俺が返答するという形で会話が続いた。十五分ほど会話が続き、彼女は冷えるからと部屋に引っ込んでいった。彼女は部屋に引っ込んだ後、俺はしばらくベランダに立っていた。散々泣いた後のような、頭がぼーっとする感覚を覚えた。
久しぶりの会話からか、ベッドに寝転がると、すぐに寝てしまった。

 疲れた時にいつも見る夢がある。    
赤いドレスに身を包み、化粧をしてベランダで口から煙を吐く母親を後ろから見ている。肩のあたりで切り揃えられた髪は内巻きの癖があり、風で揺れた髪は踊ってるようだった。居間のちゃぶ台には弁当と使い終わったライターが置かれてる。
いつもは話しかけてはいけない気がして、黙って弁当を食べる。食べ終わる頃には母親は家を出ていて、家に一人になる。そんな夢。ベランダと居間は世界が違う。夢の中の俺はそう思っていた。
 一度だけ、母の背中に向けて声をかけたことがある。                
「俺、いじめられてる」
 母親の肩が少しだけ、動いた気がする。俺の両足は、かすかに震えていた。綿菓子のような煙を吐き出し、振り返らずに母親は「我慢しなさい。それが嫌なら、愛想を覚えなさい」と言った。

 次の日もベランダに行くと、彼女がいた。
「木枯」という彼女は、ベランダでよく過ごしてるらしかった。一応ネットで彼女の名前を検索したが、彼女は出てこなかった。もしかしたらと思ったが、違ったらしい。   
 人と話すのが久しぶりで、どう話しかけようか迷っていると、彼女の方から話しかけて来た。
「ペットは飼わないんですか?」     
このアパートはペット禁止ではないから一応飼えるのだが、果たして動物は俺を見れるのか。そんな疑問が頭に浮かび、記憶を遡っていると、
「そもそも動物は高坂さんを認識できるんですか?」と聞いてきた
どうやら俺と同じ疑問を浮かべてたらしい。
あの日から、たびたびベランダで話すようになっていた。話す内容はいたって普通だ。これは彼女から聞いたわけじゃないが、察するに彼女にも友達がいないんだと思う。じゃなきゃ、隣の男とベランダで話すなんてことに時間を使わないだろう。話す相手なんていくらでもいるのだから。
 ベランダで話し始めて約二ヶ月がたった頃、会話の中で病気になってから外食ができなくなったことを話した。飲食店で注文しても、店員が運んできてくれないし、ドライブスルーなんてもっと利用できない。利用できるのは回転寿司がかろうじてという話をすると、一緒にいってあげましょうか?と言われた。俺はせっかくの提案にありがたく乗ることにした。