学校一の王子様は、私にだけ甘すぎる。


上履きが片方、見当たらない。

下駄箱を三度も確認して、それでも茜はまだ信じられなかった。昨日はちゃんと両方あったはずなのに。



「うそ、片方だけ?」

果穂が下駄箱を覗き込んで眉をひそめた。茜はもう一度、自分の靴箱の奥まで手を突っ込んで確かめたが、やはり右足の分がない。

「誰かが間違えて履いてったとか……?」

「だとしたら最悪すぎる」

始業のチャイムまであと五分。裸足で教室に向かうわけにもいかず、茜は途方に暮れて廊下に立ち尽くした。

「どうしたの」

声をかけてきたのは、通りかかった蓮だった。事情を話すと、彼は少し考えるそぶりを見せたあと、自分の靴箱から予備の上履きを取り出した。

「これ、使って」

「え、蓮くんの予備? でも、それだと蓮くんが」

「俺は別にいい。走って買いに行けばいいだけだから」

「そんな、悪いよ」

「悪くない。困ってる人がいたら助ける。それだけ」

そう言われてしまうと、それ以上遠慮する言葉が見つからなかった。茜が礼を言って上履きを受け取ると、蓮は満足そうに小さく頷いて、教室とは反対方向へ歩いていってしまった。

「……なんか今の、めちゃくちゃ普通の顔で言ってたけど」

果穂がぼそりとつぶやく。

「普通のことだよ、困ってる人を助けるのは」

「いや、そういう次元の話じゃなくてね」

果穂が何か言いたげな顔をしていたが、チャイムが鳴って会話はそこで途切れた。



昼休み、購買のパンを買いに走った茜は、目当てのメロンパンが売り切れていたことに肩を落とした。仕方なく普通のあんぱんを手に取って教室に戻ると、机の上に見覚えのある紙袋が置かれていた。

中を覗くと、メロンパンが一つ。

「……え?」

顔を上げると、少し離れた席で蓮が素知らぬ顔で参考書を開いていた。目が合うと、彼はほんの一瞬だけ口の端を上げて、またすぐに視線を戻した。

「なんで分かったの……」

小さくつぶやいた声は、たぶん本人には届いていない。届いていないはずなのに、蓮は答えを知っているかのように涼しい顔をしていた。

「ねえ、あれって一条くんが買ってきたやつだよね?」

「日向さんにあげたってこと?」

近くの席の女子たちが、ひそひそと囁き合う声が耳に入る。茜は居たたまれなくなって、メロンパンの袋をぎゅっと抱えたまま俯いた。

「誰にでも、優しいだけだよ、たぶん」

小声でそう呟いたのに、隣の席の悠真がそれを拾ってしまったらしい。

「え、それ本気で言ってる?」

「悠真くん……」

「蓮がクラスの女子全員にメロンパン配ってるところ、想像してみてよ。似合わなすぎて笑えるでしょ」

想像してみて、確かに笑ってしまいそうになった。悠真はにやにやしながら、茜の反応を面白そうに眺めている。

「まあ、そのうち分かるんじゃない? 君にだけ、っていう意味が」

「どういう意味?」

「さあ。俺の口からは言えないなあ」

はぐらかすように笑って、悠真は自分の弁当箱を開いてしまった。茜はメロンパンを見つめたまま、もやもやとした気持ちを持て余していた。



放課後、教室に残っていた茜のもとに、クラスの委員をしている女子生徒が近づいてきた。

「ねえ、日向さんって一条くんと何かあるの?」

「な、何もないよ! ただの席が隣なだけで」

「そう? なんか一条くん、日向さんのことよく見てる気がするんだけど」

「気のせいだと思う……」

自分でもうまく言い切れないまま、曖昧に笑ってごまかす。相手はそれ以上追及せず、軽く肩をすくめて教室を出ていった。

一人になった教室で、茜は自分の机の中を片付けながら、今日一日の出来事を頭の中で並べ直していた。

上履き。メロンパン。何気ない優しさが、今日だけで何度も自分に向けられていた。

(誰にでも同じことをしてるだけ、だよね)

そう思おうとするたび、なぜか胸の奥がちくりと痛んだ。誰にでも同じなら、こんなに落ち着かない気持ちにはならないはずなのに。

「まだ帰ってなかったんだ」

顔を上げると、教室の入り口に蓮が立っていた。

「あ、うん。片付けしてて」

「送っていこうか」

「え?」

「方向、同じみたいだから」

そんなこと、いつ調べたのだろう。聞きたいことは色々あったのに、結局茜の口から出たのは、たった一言だった。

「……うん」

夕暮れの廊下を、二人分の足音だけが並んで響いていた。茜にはまだ、この距離の意味が分からないままだった。