あたしも。
目を逸らさなかった。
いつもなら。
『当たり前や』
『何言うとんねん』
『アホか』
どれかが返ってくる。
なのに。
今日は。
何も言わない。
「……颯真兄ちゃん?」
「二十歳になったからって」
やっと口を開いた。
「急に大人になるわけちゃうやろ」
「…………」
ずるい。
答えてない。
「妹に見えるか聞いたの」
「同じようなもんや」
「違う」
「何が」
「全然違う」
もう一歩。
近づいた。
颯真兄ちゃんが、ほんの少しだけ身体を引いた。
見逃さない。
「ねえ」
「近い」
「昔はこんなの平気だったじゃん」
「お前が小さかったからや」
「今は?」
「…………」
また。
黙った。
「今は平気じゃないの?」
「すず」
「何?」
「からかうな」
「からかってない」
本気だよ。
ずっと。
ずっと本気。
「じゃあ、あたしのこと見て」
「見とる」
「ちゃんと」
「見とるって」
「女の人として」
「…………」
颯真兄ちゃんの喉が、小さく動いた。
その瞬間。
わかった。
初めて。
はっきり。
颯真兄ちゃんが困ってる。
あたしをどう扱えばいいのか。
本当に。
困ってる。
「……ふふ」
「なんや」
「なんでもない」
「なんやねん」
嬉しい。
ものすごく。
だって。
十六歳の頃なら。
こんな顔、絶対しなかった。
「颯真兄ちゃん」
「ん?」
「あと二年だからね」
「…………」
「逃げないでね」
「誰が逃げんねん」
「今、逃げてる」
「逃げてへん」
「じゃあ署名」
大人認定書を差し出す。
「それはせん」
「なんで!」
「こんなん署名して職場にでも持って来られたら、俺の人生終わる」
「額に入れて飾ってあげる」
「余計嫌や!」
やっと。
いつもの颯真兄ちゃんに戻った。
あたしは笑いながら紙を畳む。
「じゃあこれは二年後まで保管しとく」
「捨てろ」
「家宝にする」
「やめろ」
「二十二歳の誕生日にもう一回持ってくるから」
「いらん」
「その時は署名してね」
「せん」
「する」
「せん」
「する!」
「せん!」
「じゃあ指切り!」
「なんでそうなんねん!」
笑った。
二十歳になっても。
結局、こんな感じ。
だけど。
少しだけ。
本当に少しだけ。
何かが変わった。
仕事がやっと終わった。
会社の通用口から表に出たら、颯真兄ちゃんが、立ってた。
え?
なんで?
「颯真兄ちゃん―!」
気づいてくれた。
「どないしたん?」
「……颯真兄ちゃん?」
「ほら、行くぞ」
「え?」
「予約しとる」
「予約?」
「成人祝いするんやろ」
「…………!」
いつとは、約束してへんかったけど。
忘れてなかった。
「行く!」
「声でかい」
「どこ!? 何食べるの!?」
「居酒屋」
「居酒屋!」
「お前が行ってみたい言うたんやろ」
言った。
二十歳になったら。
颯真兄ちゃんと居酒屋に行きたいって。
「行く行く!」
「せやから行く言うとるやろ」
「颯真兄ちゃんのおごり?」
「今日くらいはな」
「やったぁ!」
「その代わり」
「うん!」
「飲みすぎんなよ」
「大丈夫!」
「初めて飲む奴の大丈夫ほど信用できんもんないからな」
「平気だって!」
――二時間後。
「しょうまにいちゃぁん」
「…………」
「ねえ」
「…………なんや」
「たのしいねぇ」
「せやな」
「お酒って、おいしいねぇ」
「もう水飲め」
「やだ」
「飲め」
「やぁだぁ」
「子供か」
「大人ですぅ。二十歳ですぅ」
「大人はそんな喋り方せえへん」
颯真兄ちゃんが、あたしの前に水を置いた。
あたしは頬杖をついて、その顔を見る。
「颯真兄ちゃん」
「ん?」
「かっこいい」
「はいはい」
「好き〰️」
「酔っ払いは黙っとけ」
「好きぃ〰️」
「わかったから水飲め」
「知ってた?」
「何を」
「あたし、颯真兄ちゃん好きなの」
「十三年以上聞いとる」
「じゃあ、知ってるねぇ」
「ああ、よう知っとる」
嬉しくなって。
笑った。
初めてのお酒。
颯真兄ちゃんと呑めた。
また一個。
あたしの初めてが。
颯真兄ちゃんになった。
お店を出た。
「歩けるか?」
「歩ける!」
店を出て。
三歩。
「わっ」
「歩けてへんやないか!」
颯真兄ちゃんに腕を掴まれた。
「道が動いた」
「動くか!」
「動いたもん」
「もうええ。タクシー拾うぞ」
「やだ」
「なんでや」
「歩く」
「無理やろ」
「歩くぅ」
一歩。
ふらっ。
「危なっ!」
今度は腰を支えられた。
「…………」
近い。
顔を上げる。
颯真兄ちゃんがいる。
「すず?」
「……近い」
「お前が倒れてきたんや!」
「へへ」
「笑うな」
酔ってる。
頭はふわふわしてる。
「ほら」
颯真兄ちゃんが、あたしの前でしゃがんだ。
「……なに?」
「乗れ」
「…………」
「家まで背負ったる」
「おんぶ?」
「歩かせたら朝になるわ」
「…………」
颯真兄ちゃんの背中。
昔。
何度もおんぶしてもらった。
眠くなった時。
転んで泣いた時。
帰りたくないって駄々をこねた時。
でも。
最後におんぶしてもらったのなんて。
何年前だろう。
「早よせえ」
「……うん」
そっと。
背中に身体を預けた。
「よっ」
颯真兄ちゃんが立ち上がる。
高い。
「うわぁ」
「暴れんなよ」
「はーい」
首に腕を回す。
ぎゅっ。
その時すずの胸が、颯真の背中に当たった。
「……すず」
「なぁに?」
「締めすぎや」
「落ちる」
「落とさん」
「ほんと?」
「ほんま」
その言葉に安心して。
力を抜いた。
颯真兄ちゃんの背中。
広い。
あったかい。
こんなに大きかったっけ。
ぴったり身体を預けると。
颯真兄ちゃんが、立ち止まった。
「…………」
「どないしたん?」
「………なんでもない」
「……ねえ」
「なんや」
「昔も、こうやっておんぶしてくれたよね」
「ああ」
「あたし、重くなった?」
「そらな」
「ひどい!」
「四歳と一緒なわけあるか」
「女の子に重いって言っちゃダメなんだよ」
「そういう意味ちゃう!」
「じゃあどういう意味?」
「いろいろ大きなったっちゅう意味や」
「…………」
あたしは颯真兄ちゃんの肩に顎を乗せた。
「颯真兄ちゃん」
「ん?」
「ちゃんと大きくなったよ」
「……せやな」
「大人になった?」
「…………」
返事がない。
「ねえ」
顔を少し動かした。
その拍子に。
頬が。
颯真兄ちゃんの首筋に触れた。
「…………!」
颯真兄ちゃんの足が。
一瞬。
止まった。
「……どうしたの?」
「いや」
また歩き出す。
「なんでもない」
「疲れた?」
「ちゃう」
「あたし重い?」
「ちゃう言うとるやろ」
「じゃあ何?」
「…………」
答えてくれない。
だから。
また肩に顔を預けた。
頬に。
颯真兄ちゃんの首筋の温かさを感じる。
「……すず」
「ん?」
「顔、ちょい離せ」
「なんで?」
「ええから」
「やだ」
「すず」
「眠い」
「家着くまで寝るな」
「むりぃ……」
腕に少し力を入れて。
もっと、くっついた。
「颯真兄ちゃん、あったかい」
「…………」
「好き」
「……はいはい」
「またそれ」
「何が」
「はいはいって言う」
「酔っとるからや」
「酔ってなくても好きだもん」
「………知っとる」
「じゃあ」
耳元で。
小さく聞いた。
「あたしのことは?」
「…………」
颯真兄ちゃんの歩く速度が。
ほんの少しだけ速くなった。
「颯真兄ちゃん?」
「黙って乗っとけ」
「教えてよ」
「酔っ払いには教えへん」
「ケチ」
「なんとでも言え」
見えなかった。
背負われていたから。
颯真兄ちゃんが。
どんな顔をしていたのか。
あたしには見えなかった。
ただ。
首筋が。
さっきより少し熱くなった気がした。
あたしは知らなかった。
昔と同じように。
何も考えず。
あたしを背負っているんだと思っていた。
でも。
颯真兄ちゃんにとっては。
もう。
昔と同じじゃなかった。
四歳のすずじゃない。
十六歳のすずでもない。
背中にいるのは。
二十歳になった。
一人の女だった。
颯真の家に着いて。
颯真は。
しばらく。
その場から動かなかった。
背中に残っている。
すずの感触。
首筋には。
頬を寄せられた時の。
くすぐったさまで。
『好きぃ』
酔っ払った声を思い出す。
「…………アホ」
今までなら。
何とも思わなかった。
子供の頃から。
何度も抱き上げた。
おぶった。
手だって繋いだ。
なのに。
今日だけは。
違った。
「……俺かて、男なんやからな」
目を逸らさなかった。
いつもなら。
『当たり前や』
『何言うとんねん』
『アホか』
どれかが返ってくる。
なのに。
今日は。
何も言わない。
「……颯真兄ちゃん?」
「二十歳になったからって」
やっと口を開いた。
「急に大人になるわけちゃうやろ」
「…………」
ずるい。
答えてない。
「妹に見えるか聞いたの」
「同じようなもんや」
「違う」
「何が」
「全然違う」
もう一歩。
近づいた。
颯真兄ちゃんが、ほんの少しだけ身体を引いた。
見逃さない。
「ねえ」
「近い」
「昔はこんなの平気だったじゃん」
「お前が小さかったからや」
「今は?」
「…………」
また。
黙った。
「今は平気じゃないの?」
「すず」
「何?」
「からかうな」
「からかってない」
本気だよ。
ずっと。
ずっと本気。
「じゃあ、あたしのこと見て」
「見とる」
「ちゃんと」
「見とるって」
「女の人として」
「…………」
颯真兄ちゃんの喉が、小さく動いた。
その瞬間。
わかった。
初めて。
はっきり。
颯真兄ちゃんが困ってる。
あたしをどう扱えばいいのか。
本当に。
困ってる。
「……ふふ」
「なんや」
「なんでもない」
「なんやねん」
嬉しい。
ものすごく。
だって。
十六歳の頃なら。
こんな顔、絶対しなかった。
「颯真兄ちゃん」
「ん?」
「あと二年だからね」
「…………」
「逃げないでね」
「誰が逃げんねん」
「今、逃げてる」
「逃げてへん」
「じゃあ署名」
大人認定書を差し出す。
「それはせん」
「なんで!」
「こんなん署名して職場にでも持って来られたら、俺の人生終わる」
「額に入れて飾ってあげる」
「余計嫌や!」
やっと。
いつもの颯真兄ちゃんに戻った。
あたしは笑いながら紙を畳む。
「じゃあこれは二年後まで保管しとく」
「捨てろ」
「家宝にする」
「やめろ」
「二十二歳の誕生日にもう一回持ってくるから」
「いらん」
「その時は署名してね」
「せん」
「する」
「せん」
「する!」
「せん!」
「じゃあ指切り!」
「なんでそうなんねん!」
笑った。
二十歳になっても。
結局、こんな感じ。
だけど。
少しだけ。
本当に少しだけ。
何かが変わった。
仕事がやっと終わった。
会社の通用口から表に出たら、颯真兄ちゃんが、立ってた。
え?
なんで?
「颯真兄ちゃん―!」
気づいてくれた。
「どないしたん?」
「……颯真兄ちゃん?」
「ほら、行くぞ」
「え?」
「予約しとる」
「予約?」
「成人祝いするんやろ」
「…………!」
いつとは、約束してへんかったけど。
忘れてなかった。
「行く!」
「声でかい」
「どこ!? 何食べるの!?」
「居酒屋」
「居酒屋!」
「お前が行ってみたい言うたんやろ」
言った。
二十歳になったら。
颯真兄ちゃんと居酒屋に行きたいって。
「行く行く!」
「せやから行く言うとるやろ」
「颯真兄ちゃんのおごり?」
「今日くらいはな」
「やったぁ!」
「その代わり」
「うん!」
「飲みすぎんなよ」
「大丈夫!」
「初めて飲む奴の大丈夫ほど信用できんもんないからな」
「平気だって!」
――二時間後。
「しょうまにいちゃぁん」
「…………」
「ねえ」
「…………なんや」
「たのしいねぇ」
「せやな」
「お酒って、おいしいねぇ」
「もう水飲め」
「やだ」
「飲め」
「やぁだぁ」
「子供か」
「大人ですぅ。二十歳ですぅ」
「大人はそんな喋り方せえへん」
颯真兄ちゃんが、あたしの前に水を置いた。
あたしは頬杖をついて、その顔を見る。
「颯真兄ちゃん」
「ん?」
「かっこいい」
「はいはい」
「好き〰️」
「酔っ払いは黙っとけ」
「好きぃ〰️」
「わかったから水飲め」
「知ってた?」
「何を」
「あたし、颯真兄ちゃん好きなの」
「十三年以上聞いとる」
「じゃあ、知ってるねぇ」
「ああ、よう知っとる」
嬉しくなって。
笑った。
初めてのお酒。
颯真兄ちゃんと呑めた。
また一個。
あたしの初めてが。
颯真兄ちゃんになった。
お店を出た。
「歩けるか?」
「歩ける!」
店を出て。
三歩。
「わっ」
「歩けてへんやないか!」
颯真兄ちゃんに腕を掴まれた。
「道が動いた」
「動くか!」
「動いたもん」
「もうええ。タクシー拾うぞ」
「やだ」
「なんでや」
「歩く」
「無理やろ」
「歩くぅ」
一歩。
ふらっ。
「危なっ!」
今度は腰を支えられた。
「…………」
近い。
顔を上げる。
颯真兄ちゃんがいる。
「すず?」
「……近い」
「お前が倒れてきたんや!」
「へへ」
「笑うな」
酔ってる。
頭はふわふわしてる。
「ほら」
颯真兄ちゃんが、あたしの前でしゃがんだ。
「……なに?」
「乗れ」
「…………」
「家まで背負ったる」
「おんぶ?」
「歩かせたら朝になるわ」
「…………」
颯真兄ちゃんの背中。
昔。
何度もおんぶしてもらった。
眠くなった時。
転んで泣いた時。
帰りたくないって駄々をこねた時。
でも。
最後におんぶしてもらったのなんて。
何年前だろう。
「早よせえ」
「……うん」
そっと。
背中に身体を預けた。
「よっ」
颯真兄ちゃんが立ち上がる。
高い。
「うわぁ」
「暴れんなよ」
「はーい」
首に腕を回す。
ぎゅっ。
その時すずの胸が、颯真の背中に当たった。
「……すず」
「なぁに?」
「締めすぎや」
「落ちる」
「落とさん」
「ほんと?」
「ほんま」
その言葉に安心して。
力を抜いた。
颯真兄ちゃんの背中。
広い。
あったかい。
こんなに大きかったっけ。
ぴったり身体を預けると。
颯真兄ちゃんが、立ち止まった。
「…………」
「どないしたん?」
「………なんでもない」
「……ねえ」
「なんや」
「昔も、こうやっておんぶしてくれたよね」
「ああ」
「あたし、重くなった?」
「そらな」
「ひどい!」
「四歳と一緒なわけあるか」
「女の子に重いって言っちゃダメなんだよ」
「そういう意味ちゃう!」
「じゃあどういう意味?」
「いろいろ大きなったっちゅう意味や」
「…………」
あたしは颯真兄ちゃんの肩に顎を乗せた。
「颯真兄ちゃん」
「ん?」
「ちゃんと大きくなったよ」
「……せやな」
「大人になった?」
「…………」
返事がない。
「ねえ」
顔を少し動かした。
その拍子に。
頬が。
颯真兄ちゃんの首筋に触れた。
「…………!」
颯真兄ちゃんの足が。
一瞬。
止まった。
「……どうしたの?」
「いや」
また歩き出す。
「なんでもない」
「疲れた?」
「ちゃう」
「あたし重い?」
「ちゃう言うとるやろ」
「じゃあ何?」
「…………」
答えてくれない。
だから。
また肩に顔を預けた。
頬に。
颯真兄ちゃんの首筋の温かさを感じる。
「……すず」
「ん?」
「顔、ちょい離せ」
「なんで?」
「ええから」
「やだ」
「すず」
「眠い」
「家着くまで寝るな」
「むりぃ……」
腕に少し力を入れて。
もっと、くっついた。
「颯真兄ちゃん、あったかい」
「…………」
「好き」
「……はいはい」
「またそれ」
「何が」
「はいはいって言う」
「酔っとるからや」
「酔ってなくても好きだもん」
「………知っとる」
「じゃあ」
耳元で。
小さく聞いた。
「あたしのことは?」
「…………」
颯真兄ちゃんの歩く速度が。
ほんの少しだけ速くなった。
「颯真兄ちゃん?」
「黙って乗っとけ」
「教えてよ」
「酔っ払いには教えへん」
「ケチ」
「なんとでも言え」
見えなかった。
背負われていたから。
颯真兄ちゃんが。
どんな顔をしていたのか。
あたしには見えなかった。
ただ。
首筋が。
さっきより少し熱くなった気がした。
あたしは知らなかった。
昔と同じように。
何も考えず。
あたしを背負っているんだと思っていた。
でも。
颯真兄ちゃんにとっては。
もう。
昔と同じじゃなかった。
四歳のすずじゃない。
十六歳のすずでもない。
背中にいるのは。
二十歳になった。
一人の女だった。
颯真の家に着いて。
颯真は。
しばらく。
その場から動かなかった。
背中に残っている。
すずの感触。
首筋には。
頬を寄せられた時の。
くすぐったさまで。
『好きぃ』
酔っ払った声を思い出す。
「…………アホ」
今までなら。
何とも思わなかった。
子供の頃から。
何度も抱き上げた。
おぶった。
手だって繋いだ。
なのに。
今日だけは。
違った。
「……俺かて、男なんやからな」



