そんな願いも虚しく、病棟に着くなり、及川はナースステーションの中にいる綾瀬を見つけてしまった。
髪をきっちりまとめ、手元の記録を確認している。
相変わらず、藤崎先生が病棟に現れただけで、スタッフの表情が少し色めき立つのが分かる。
けれど、綾瀬はどこ吹く風だった。
顔を上げ、藤崎先生を見て、必要な会釈だけをする。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です」
それだけ。
本当に、それだけだ。
恋人らしさなど、一ミリもない。
ないのに、及川だけが勝手に動揺している。
主任が患者の情報を確認しながら言った。
「綾瀬さん、同席お願い」
「分かりました」
終わった……
及川は内心で天を仰いだ。
結局、藤崎先生と綾瀬と及川の三人で病室に向かうことになってしまった。
なんだ、この無言。
いや、別に普通のことだ。
医師と看護師が患者のところへ向かっているだけ。
業務上、何もおかしくない。
おかしくないのに。
まったく動じない二人の間で、自分だけが妙に落ち着かない。
病室に入ると、すぐに情報のやり取りが始まった。
「昨日の夕食は半量です。今朝はほとんど摂れていません」
綾瀬が簡潔に言う。
藤崎先生が患者の顔色を見ながら、穏やかに尋ねた。
「嘔吐は?」
「ありません。嘔気は軽度あります」
「疼痛は食後に増える?」
「はい。安静時は三から四程度です。食後は六程度まで上がると話されています」
「発熱は?」
「最終で三十八度二分です」
「抗菌薬後は?」
「今のところ悪寒はありません。発汗も落ち着いています」
噛み合っている。
嫌になるくらい、噛み合っている。
藤崎先生が聞き、綾瀬が必要な情報を出す。
綾瀬が患者の表情を見れば、藤崎先生が説明の言葉を少し柔らかくする。
患者が不安そうに目を動かした瞬間、綾瀬が一歩だけ近づく。
その気配を拾うように、藤崎先生が説明を言い換えた。
「今の段階で、すぐに手術という話ではありません。ただ、炎症の原因がどこにあるのかを、もう少し正確に見たいと思っています」
患者が小さく頷く。
綾瀬がその横で、必要な補足だけを入れる。
仕事として完璧だった。
完璧すぎた。
及川はその場にいながら、正直、あまり話が入ってこなかった。
コンサルとしては非常にスムーズ。
問題があるとしたら、それは及川の集中力だけだった。
病室を出る。
廊下に出たところで、綾瀬が振り返った。
「及川先生」
「はい」
思わず背筋が伸びた。
「ちゃんと話を聞いていましたか?」
ぎくりとした。
綾瀬の視線が、及川の手元へ落ちる。
「メモが少ないですね」
「いや、その」
「はい、どうぞ」
綾瀬は、自分のメモを一枚差し出した。
主訴
経過
指示
患者説明
注意点
必要なことが、簡潔に整理されていた。
「どんな状況でも、仕事は仕事です」
静かな声だった。
ただ、正論だけがまっすぐ来る。
強い。
「……はい」
「次はちゃんと自分で取ってください」
「はい」
綾瀬はそれだけ言うと、一礼してナースステーションへ戻っていった。
及川はメモを持ったまま、しばらく廊下に立ち尽くした。
隣で、藤崎先生が小さく笑う。
「綾瀬さんに怒られちゃったね」
穏やかな声だった。
フォローのようにも聞こえる。
ただ、及川には分かる。
これはたぶん、フォローだけではない。
「原因は先生ですけどね」
及川は、少しだけ揺さぶりをかけてみた。
藤崎先生は、少しも慌てなかった。
「俺?」
「……いえ」
「俺、何かしたかな」
穏やかな声
柔らかい笑顔
完璧な立ち振る舞い
――二人は付き合ってるんですよね。
そう言いたい。
言いたいけど、ここで言えるはずがない。
及川は口を閉じた。
「……何でもないです」
「そう」
藤崎先生は、それ以上追及しなかった。
相変わらず澄ました顔で、綺麗に受け流している。
たぶん、この人は分かっている。
及川が何に気づいているのかも。
それでも、認めない。
白とも黒とも言わない。
綾瀬を守るためなら、この王子は平然と何もない顔を選ぶのだろう。
本当に、隙がない。
及川は手元のメモに目を落とした。
綾瀬の字で、必要な情報がきれいに並んでいる。
ーー仕事は仕事。
まったくその通りだ。
その正しさに、さっきまでの動揺をまとめて刺された気がした。
ふと、肝胆膵班の申し送りメモに書かれていた一文が、妙に鮮明に思い出された。
【飲み会後、女性に囲まれていたら、救出すること】
王子のSP。
誰が書いたのかは知らない。
けれど、今なら少しだけ分かる気がした。
藤崎先生は、何も認めない。
綾瀬も、何も言わない。
たぶん二人とも、この関係を守るためにそうしているのだろう。
及川がそこへ踏み込む必要はない。
だったら。
王子のSPくらいなら、引き受けてやるか。
及川は小さく息を吐き、藤崎先生の後を追った。
髪をきっちりまとめ、手元の記録を確認している。
相変わらず、藤崎先生が病棟に現れただけで、スタッフの表情が少し色めき立つのが分かる。
けれど、綾瀬はどこ吹く風だった。
顔を上げ、藤崎先生を見て、必要な会釈だけをする。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です」
それだけ。
本当に、それだけだ。
恋人らしさなど、一ミリもない。
ないのに、及川だけが勝手に動揺している。
主任が患者の情報を確認しながら言った。
「綾瀬さん、同席お願い」
「分かりました」
終わった……
及川は内心で天を仰いだ。
結局、藤崎先生と綾瀬と及川の三人で病室に向かうことになってしまった。
なんだ、この無言。
いや、別に普通のことだ。
医師と看護師が患者のところへ向かっているだけ。
業務上、何もおかしくない。
おかしくないのに。
まったく動じない二人の間で、自分だけが妙に落ち着かない。
病室に入ると、すぐに情報のやり取りが始まった。
「昨日の夕食は半量です。今朝はほとんど摂れていません」
綾瀬が簡潔に言う。
藤崎先生が患者の顔色を見ながら、穏やかに尋ねた。
「嘔吐は?」
「ありません。嘔気は軽度あります」
「疼痛は食後に増える?」
「はい。安静時は三から四程度です。食後は六程度まで上がると話されています」
「発熱は?」
「最終で三十八度二分です」
「抗菌薬後は?」
「今のところ悪寒はありません。発汗も落ち着いています」
噛み合っている。
嫌になるくらい、噛み合っている。
藤崎先生が聞き、綾瀬が必要な情報を出す。
綾瀬が患者の表情を見れば、藤崎先生が説明の言葉を少し柔らかくする。
患者が不安そうに目を動かした瞬間、綾瀬が一歩だけ近づく。
その気配を拾うように、藤崎先生が説明を言い換えた。
「今の段階で、すぐに手術という話ではありません。ただ、炎症の原因がどこにあるのかを、もう少し正確に見たいと思っています」
患者が小さく頷く。
綾瀬がその横で、必要な補足だけを入れる。
仕事として完璧だった。
完璧すぎた。
及川はその場にいながら、正直、あまり話が入ってこなかった。
コンサルとしては非常にスムーズ。
問題があるとしたら、それは及川の集中力だけだった。
病室を出る。
廊下に出たところで、綾瀬が振り返った。
「及川先生」
「はい」
思わず背筋が伸びた。
「ちゃんと話を聞いていましたか?」
ぎくりとした。
綾瀬の視線が、及川の手元へ落ちる。
「メモが少ないですね」
「いや、その」
「はい、どうぞ」
綾瀬は、自分のメモを一枚差し出した。
主訴
経過
指示
患者説明
注意点
必要なことが、簡潔に整理されていた。
「どんな状況でも、仕事は仕事です」
静かな声だった。
ただ、正論だけがまっすぐ来る。
強い。
「……はい」
「次はちゃんと自分で取ってください」
「はい」
綾瀬はそれだけ言うと、一礼してナースステーションへ戻っていった。
及川はメモを持ったまま、しばらく廊下に立ち尽くした。
隣で、藤崎先生が小さく笑う。
「綾瀬さんに怒られちゃったね」
穏やかな声だった。
フォローのようにも聞こえる。
ただ、及川には分かる。
これはたぶん、フォローだけではない。
「原因は先生ですけどね」
及川は、少しだけ揺さぶりをかけてみた。
藤崎先生は、少しも慌てなかった。
「俺?」
「……いえ」
「俺、何かしたかな」
穏やかな声
柔らかい笑顔
完璧な立ち振る舞い
――二人は付き合ってるんですよね。
そう言いたい。
言いたいけど、ここで言えるはずがない。
及川は口を閉じた。
「……何でもないです」
「そう」
藤崎先生は、それ以上追及しなかった。
相変わらず澄ました顔で、綺麗に受け流している。
たぶん、この人は分かっている。
及川が何に気づいているのかも。
それでも、認めない。
白とも黒とも言わない。
綾瀬を守るためなら、この王子は平然と何もない顔を選ぶのだろう。
本当に、隙がない。
及川は手元のメモに目を落とした。
綾瀬の字で、必要な情報がきれいに並んでいる。
ーー仕事は仕事。
まったくその通りだ。
その正しさに、さっきまでの動揺をまとめて刺された気がした。
ふと、肝胆膵班の申し送りメモに書かれていた一文が、妙に鮮明に思い出された。
【飲み会後、女性に囲まれていたら、救出すること】
王子のSP。
誰が書いたのかは知らない。
けれど、今なら少しだけ分かる気がした。
藤崎先生は、何も認めない。
綾瀬も、何も言わない。
たぶん二人とも、この関係を守るためにそうしているのだろう。
及川がそこへ踏み込む必要はない。
だったら。
王子のSPくらいなら、引き受けてやるか。
及川は小さく息を吐き、藤崎先生の後を追った。

