「でも、及川先生って、綾瀬さんとも仲いいですよね」
後輩看護師が、ふと思い出したように言った。
及川は水を飲みかけて、止まった。
「いきなりそこ?」
「気になります」
「今、俺の結婚話してたよね」
「それも気になりますけど、綾瀬さんとの関係も気になります」
「関係って」
「昔から仲良かったんですよね?」
及川はグラスを置いた。
「まあ、俺が10Aにいた時期があるからね」
「それだけですか?」
「それだけ」
「本当に何もなかったんですか?」
「ないない。本当に何もない」
「昔はどうだったんですか?」
「昔もない」
「えー」
「えー、じゃない。俺、結婚の話を聞かれるってことで来たんだけど。なんで綾瀬の尋問になってんの」
中川が横で笑った。
「完全に取り調べだな」
「お前、笑ってないで助けろよ」
「無理。面白いから」
「役に立たないな」
そこへ、先輩看護師が笑いながら口を挟んだ。
「でも及川先生、研修医の頃から綾瀬さんと距離近かったよね」
「距離が近いというか、だいぶオーダー確認で刺されてただけですけどね」
「確かに刺してたね。言葉で」
「ですよね。本当に厳しかった」
「あの頃の綾瀬さん、まだ今よりずっと尖ってたもんね」
及川は少しだけ笑った。
「まあ、俺もよく刺されてましたからね」
研修医だった自分と、新人看護師だった綾瀬。
あの頃から距離が近く見えていたのなら、きっとそのせいだ。
輪から外れようとするたびに、
――巻き込まれておけって。
何度も言った。
綾瀬はいつも嫌そうな顔をしていたけれど、結局は完全に突き放さなかった。
それだけだった。
「及川先生と綾瀬さんは、本当に何もなかったんですか?」
若手看護師が、まだ納得していない顔で聞いてくる。
「ない。本当にないです」
及川は今度こそ、はっきり言った。
「綾瀬とは、そういうんじゃない」
「そういうんじゃない?」
「同じ時期を知ってるだけ」
「それ、ちょっといいですね」
「いい話にしないで」
先輩看護師が頷いた。
「でも、及川先生と綾瀬さんは、戦友みたいな感じだったよね」
「あ、それ分かります」
別の看護師も頷く。
「恋愛っぽさはなかったですよね」
「そもそも綾瀬さん、そういう話を全然しないし」
「確かに」
「綾瀬さんの恋愛話、聞いたことないかも」
及川はグラスの中の氷を見た。
綾瀬は、そういう話をしない。
自分のことになると、必要以上に線を引く。
さっきも、その線の向こう側を一瞬だけ覗いてしまった気がした。
相手は、院内で王子と呼ばれる男。
憧れる女性は後を絶たない。
その相手と、誰にも知られないように何かを始めているのだとしたら。
「……綾瀬も、大変だな」
思わず呟いて、及川はグラスを持ち直した。
誰も気づいていない。
綾瀬も、何も言っていない。
認めたわけでもない。
それでも、及川にはもう十分だった。
藤崎先生の低い声。
あの目。
そして、綾瀬が何も答えなかったこと。
あれは、ただの悪ノリへの注意ではなかった。
藤崎先生には、触れるな。
そして。
綾瀬にも、たぶん、触れるな。
屋形船の二次会で、及川はそのことを静かに胸に刻んだ。
後輩看護師が、ふと思い出したように言った。
及川は水を飲みかけて、止まった。
「いきなりそこ?」
「気になります」
「今、俺の結婚話してたよね」
「それも気になりますけど、綾瀬さんとの関係も気になります」
「関係って」
「昔から仲良かったんですよね?」
及川はグラスを置いた。
「まあ、俺が10Aにいた時期があるからね」
「それだけですか?」
「それだけ」
「本当に何もなかったんですか?」
「ないない。本当に何もない」
「昔はどうだったんですか?」
「昔もない」
「えー」
「えー、じゃない。俺、結婚の話を聞かれるってことで来たんだけど。なんで綾瀬の尋問になってんの」
中川が横で笑った。
「完全に取り調べだな」
「お前、笑ってないで助けろよ」
「無理。面白いから」
「役に立たないな」
そこへ、先輩看護師が笑いながら口を挟んだ。
「でも及川先生、研修医の頃から綾瀬さんと距離近かったよね」
「距離が近いというか、だいぶオーダー確認で刺されてただけですけどね」
「確かに刺してたね。言葉で」
「ですよね。本当に厳しかった」
「あの頃の綾瀬さん、まだ今よりずっと尖ってたもんね」
及川は少しだけ笑った。
「まあ、俺もよく刺されてましたからね」
研修医だった自分と、新人看護師だった綾瀬。
あの頃から距離が近く見えていたのなら、きっとそのせいだ。
輪から外れようとするたびに、
――巻き込まれておけって。
何度も言った。
綾瀬はいつも嫌そうな顔をしていたけれど、結局は完全に突き放さなかった。
それだけだった。
「及川先生と綾瀬さんは、本当に何もなかったんですか?」
若手看護師が、まだ納得していない顔で聞いてくる。
「ない。本当にないです」
及川は今度こそ、はっきり言った。
「綾瀬とは、そういうんじゃない」
「そういうんじゃない?」
「同じ時期を知ってるだけ」
「それ、ちょっといいですね」
「いい話にしないで」
先輩看護師が頷いた。
「でも、及川先生と綾瀬さんは、戦友みたいな感じだったよね」
「あ、それ分かります」
別の看護師も頷く。
「恋愛っぽさはなかったですよね」
「そもそも綾瀬さん、そういう話を全然しないし」
「確かに」
「綾瀬さんの恋愛話、聞いたことないかも」
及川はグラスの中の氷を見た。
綾瀬は、そういう話をしない。
自分のことになると、必要以上に線を引く。
さっきも、その線の向こう側を一瞬だけ覗いてしまった気がした。
相手は、院内で王子と呼ばれる男。
憧れる女性は後を絶たない。
その相手と、誰にも知られないように何かを始めているのだとしたら。
「……綾瀬も、大変だな」
思わず呟いて、及川はグラスを持ち直した。
誰も気づいていない。
綾瀬も、何も言っていない。
認めたわけでもない。
それでも、及川にはもう十分だった。
藤崎先生の低い声。
あの目。
そして、綾瀬が何も答えなかったこと。
あれは、ただの悪ノリへの注意ではなかった。
藤崎先生には、触れるな。
そして。
綾瀬にも、たぶん、触れるな。
屋形船の二次会で、及川はそのことを静かに胸に刻んだ。


