屋形船の夜。
及川は、綾瀬に売られた。
正確には、二次会の話題として差し出された。
船を降りたあと、及川は綾瀬を呼び止めた。
謝るつもりだった。
さっき、場の空気に乗って、綾瀬の肩に手を置こうとした。
本当に深い意味はなかった。
昔からの距離感。
10Aにいた頃の延長。
周囲に茶化された流れ。
けれど、触れる前に止められた。
――触れるなよ。
藤崎先生の低い声。
あの瞬間、及川は反射的に手を引いた。
周囲には、酔った後輩医師の悪ノリを上の医師が止めたように見えただろう。
実際、それは間違っていない。
間違っていないはずだった。
けれど。
あの目は違った。
病棟で見る、穏やかな藤崎先生の目ではなかった。
冷静で、静かで。
それなのに、妙に個人的だった。
及川は思わず聞きかけた。
――もしかして、綾瀬と藤崎先生って。
けれど、綾瀬は答えなかった。
肯定も否定もしなかった。

つまり。
そういうことなのだろう。
いつの間に?
そんな野暮なことも一瞬考えたけれど、これ以上踏み込むのは畏れ多い。
及川は、胸の内に秘めておくことにした。
ただ。
綾瀬の秘め事に触れてしまった代償は、別の形で払わされることになった。
二次会へ誘われていた綾瀬は、周囲に向かってさらりと言った。
「私は遠慮しておきます。及川くん、もうすぐ結婚する彼女がいるそうなので、今日はその話を聞いてあげてください」
「え?」
及川が振り向いた時には遅かった。
「では、お疲れ様でした」
綾瀬は何事もなかったように頭を下げ、そのまま夜風の中へ消えていった。
そして残された及川は、当然のように10Aの看護師たちに囲まれた。
「及川先生、結婚ってどういうことですか?」
「彼女いるんですか?」
「いつからですか?」
「相手、どんな人なんですか?」
「ちょ、待って。順番に聞いて」
及川は両手を軽く上げた。
完全に売られた。
いや。
売られたというより、差し出された。
二次会の話題として。
綾瀬美月。
本当に、こういうところも容赦ない。
「……綾瀬、覚えてろよ」
小さく呟いたところで、先輩看護師が笑った。
「及川先生、何か言いました?」
「いえ。何でもないです」
そこだけは、自然と敬語になった。
結局、及川はそのまま二次会へ連れていかれた。
中川も、当然のようについてきた。
「お前、絶対助ける気ないだろ」
「ないな」
「即答するなよ」
「だって面白いだろ。屋形船の帰りに結婚話で囲まれる及川」
「性格悪いな」
近くの店に入り、奥の席に通される。
飲み物が揃う前から、質問は再開された。
「及川先生、本当に結婚するんですか?」
後輩看護師が、身を乗り出すように聞いてくる。
「するよ」
「いつですか?」
「まだ細かい日取りはこれから」
「彼女さんと長いんですか?」
「学生の頃から」
「え、すごい」
「一途じゃないですか」
「いや、まあ」
及川が少しだけ視線を逸らしたところで、中川が横から口を挟んだ。
「しかもこいつ、逆プロポーズされたんだよな」
「おい、中川」
案の定、看護師たちの目が一斉に輝いた。
「逆プロポーズ!?」
「何それ、詳しく聞きたいです!」
「だから今日は俺を尋問する会じゃないって」
「もう完全にそういう会だろ」
中川が楽しそうに笑う。
「しかも、結構いい店だったよな」
「そこまで言うなよ」
「彼女さんが選んだんですか?」
「……まあ」
及川は諦めてグラスを持ち上げた。
倉橋花奈。
学生の頃からの恋人で、もうすぐ結婚する相手。
小柄で、明るくて、強い。
出会った頃から弁護士になるという夢に向かって突き進み、本当にその夢を叶えた。
あの小さな身体のどこにそんな力があるのかと思うくらい、いつも前向きで、太陽みたいに明るい。
そして及川が外科レジデントとして都内に戻ってきた途端、高級レストランに呼び出して、
――結婚しよう。
と言ってくるような女でもある。
「どんな人なんですか?」
「強い人」
及川がそう答えると、中川が吹き出した。
「強い、で済ませるなよ」
「いや、本当に強いんだよ。多分、一生勝てない」
「それ、完全に尻に敷かれてるな」
「否定はしないかも」
周囲が楽しそうに笑った。
お互い仕事は忙しい。
それでも、連絡が途切れることはほとんどなかった。
及川が弱音を吐けば、花奈は決まって前向きな言葉を返してくる。
その明るさに、何度助けられたか分からない。
都内に戻ってきた今なら、ようやく一緒に暮らせる。
花奈にとっては、それだけで十分だったらしい。
だから自分から、結婚を決めた。
多分。
花奈の人生設計には、付き合い始めた頃から及川との結婚まで入っていたのだと思う。
本当に、強い女だ。
及川は、綾瀬に売られた。
正確には、二次会の話題として差し出された。
船を降りたあと、及川は綾瀬を呼び止めた。
謝るつもりだった。
さっき、場の空気に乗って、綾瀬の肩に手を置こうとした。
本当に深い意味はなかった。
昔からの距離感。
10Aにいた頃の延長。
周囲に茶化された流れ。
けれど、触れる前に止められた。
――触れるなよ。
藤崎先生の低い声。
あの瞬間、及川は反射的に手を引いた。
周囲には、酔った後輩医師の悪ノリを上の医師が止めたように見えただろう。
実際、それは間違っていない。
間違っていないはずだった。
けれど。
あの目は違った。
病棟で見る、穏やかな藤崎先生の目ではなかった。
冷静で、静かで。
それなのに、妙に個人的だった。
及川は思わず聞きかけた。
――もしかして、綾瀬と藤崎先生って。
けれど、綾瀬は答えなかった。
肯定も否定もしなかった。

つまり。
そういうことなのだろう。
いつの間に?
そんな野暮なことも一瞬考えたけれど、これ以上踏み込むのは畏れ多い。
及川は、胸の内に秘めておくことにした。
ただ。
綾瀬の秘め事に触れてしまった代償は、別の形で払わされることになった。
二次会へ誘われていた綾瀬は、周囲に向かってさらりと言った。
「私は遠慮しておきます。及川くん、もうすぐ結婚する彼女がいるそうなので、今日はその話を聞いてあげてください」
「え?」
及川が振り向いた時には遅かった。
「では、お疲れ様でした」
綾瀬は何事もなかったように頭を下げ、そのまま夜風の中へ消えていった。
そして残された及川は、当然のように10Aの看護師たちに囲まれた。
「及川先生、結婚ってどういうことですか?」
「彼女いるんですか?」
「いつからですか?」
「相手、どんな人なんですか?」
「ちょ、待って。順番に聞いて」
及川は両手を軽く上げた。
完全に売られた。
いや。
売られたというより、差し出された。
二次会の話題として。
綾瀬美月。
本当に、こういうところも容赦ない。
「……綾瀬、覚えてろよ」
小さく呟いたところで、先輩看護師が笑った。
「及川先生、何か言いました?」
「いえ。何でもないです」
そこだけは、自然と敬語になった。
結局、及川はそのまま二次会へ連れていかれた。
中川も、当然のようについてきた。
「お前、絶対助ける気ないだろ」
「ないな」
「即答するなよ」
「だって面白いだろ。屋形船の帰りに結婚話で囲まれる及川」
「性格悪いな」
近くの店に入り、奥の席に通される。
飲み物が揃う前から、質問は再開された。
「及川先生、本当に結婚するんですか?」
後輩看護師が、身を乗り出すように聞いてくる。
「するよ」
「いつですか?」
「まだ細かい日取りはこれから」
「彼女さんと長いんですか?」
「学生の頃から」
「え、すごい」
「一途じゃないですか」
「いや、まあ」
及川が少しだけ視線を逸らしたところで、中川が横から口を挟んだ。
「しかもこいつ、逆プロポーズされたんだよな」
「おい、中川」
案の定、看護師たちの目が一斉に輝いた。
「逆プロポーズ!?」
「何それ、詳しく聞きたいです!」
「だから今日は俺を尋問する会じゃないって」
「もう完全にそういう会だろ」
中川が楽しそうに笑う。
「しかも、結構いい店だったよな」
「そこまで言うなよ」
「彼女さんが選んだんですか?」
「……まあ」
及川は諦めてグラスを持ち上げた。
倉橋花奈。
学生の頃からの恋人で、もうすぐ結婚する相手。
小柄で、明るくて、強い。
出会った頃から弁護士になるという夢に向かって突き進み、本当にその夢を叶えた。
あの小さな身体のどこにそんな力があるのかと思うくらい、いつも前向きで、太陽みたいに明るい。
そして及川が外科レジデントとして都内に戻ってきた途端、高級レストランに呼び出して、
――結婚しよう。
と言ってくるような女でもある。
「どんな人なんですか?」
「強い人」
及川がそう答えると、中川が吹き出した。
「強い、で済ませるなよ」
「いや、本当に強いんだよ。多分、一生勝てない」
「それ、完全に尻に敷かれてるな」
「否定はしないかも」
周囲が楽しそうに笑った。
お互い仕事は忙しい。
それでも、連絡が途切れることはほとんどなかった。
及川が弱音を吐けば、花奈は決まって前向きな言葉を返してくる。
その明るさに、何度助けられたか分からない。
都内に戻ってきた今なら、ようやく一緒に暮らせる。
花奈にとっては、それだけで十分だったらしい。
だから自分から、結婚を決めた。
多分。
花奈の人生設計には、付き合い始めた頃から及川との結婚まで入っていたのだと思う。
本当に、強い女だ。


