『もう、好きじゃないことにした』



その日の夜は蓮の家にお泊まりだった。


二人でソファに並んで座りながら、
それぞれ携帯を眺めたり、テレビをつけたりして、ゆっくりと時間を過ごしていた。


ふと、蓮が莉央の方を見る。

「莉央?」

「なに?」
「今日、なんかあった?」

「……何もないよ!」
「嘘」

少し屈むように、莉央の顔を覗き込む。


長い睫毛も、すっと通った鼻筋も。
近くで見るたび、未だにドキッとしてしまう。



付き合っている今でも、
この顔にはなかなか慣れない。



莉央が思わず視線を逸らすと、
蓮はそんな莉央の様子をじっと見つめた。


「今日ずっと変だよ」
「…そんなことないよ」
「ある」


「……」



「…俺、何かした?」



莉央は少しだけ笑った。


「何もしてないよ」


「じゃあ、何でそんな顔してんの?」



莉央は何でもないふりをして、
小さく首を振った。



けれど、その表情はどこかぎこちなく、
今にも泣き出しそうな目だけは隠せなかった。


「……」

言えなかった。

 
「前に会った美玲のこと?」

蓮の言葉に、莉央の肩がわずかに揺れた。

「……違う」


「……そっか」

短く返した蓮は、
それ以上何も言わなかった。


けれど、しばらく莉央を見つめたあと、
少しだけ声を落として名前を呼ぶ。


「莉ー央」


責めるような響きはなくて、
ただ、莉央を安心させるような柔らかい声だった。


少しだけ間を置いてから、
莉央はゆっくりと口を開いた。

「本当に違うから」

「じゃあ、こっち見て」


莉央は顔を上げられなかった。

「……美玲さんと、会ってたよね」


蓮の目が、わずかに揺れた。

「……見たの?」
「うん」

「話してただけ」
「何を?」


「……昔のこと」


「……そっか」
「莉央、勘違いしないで」
「してないよ」
「いや、してるだろ」
「してない」


莉央は、そう言って小さく笑った。



けれど、その笑顔はどこかぎこちなくて、
無理に笑っているように見えた。



その笑顔が、蓮には妙に寂しく見えた。

「……私、もう大丈夫だから」

「何が?」
「蓮が誰と話してても」

「……」



「前はすごく嫌だったけど、今は平気」

蓮は眉を寄せる。

「それ、俺が一番嫌いな言い方」
「え…?」


「『大丈夫』って言って何も言わないやつ」

莉央は黙った。



そして、小さな声で言った。

「……だって」
「ん?」


「…だって私がいることで、蓮が困るなら……」


「は?」

蓮の声が、わずかに低くなる。



「…私……蓮のそばにいない方が……






いいのかなって…」



その言葉に、
蓮の表情が一瞬、固まった。

「……何言ってんの?」


「……蓮を困らせたくないの」
「困るよ」

即答だった。




「莉央がいなくなったほうが、俺は困る」


蓮は何も言わず、
ただ莉央の手を強く握った。



その手の温もりが、
言葉よりも



ずっとまっすぐに
莉央へ伝わってくる。




……大切にされている。


そう思った瞬間、
莉央の目から、一粒の涙がこぼれた。



「……でも」

「美玲のことなんか、俺にはどうでもいい」


「……」

「俺が好きなのは莉央だから」



胸の奥が、少しだけほどけた気がした。

だけど、
どうしても聞かずにはいられなかった。

「……本当に?」
「本当」



「……また美玲さんを好きになったりしない?」


蓮は少しだけ黙った。

そして、俯いた莉央の頬に
そっと手を添える。


逃げるように伏せていた顔を、
ゆっくりと持ち上げるようにして、
莉央の目をまっすぐ見つめた。

「ならない」
「……」


「もう二度と、莉央を傷つけるようなことはしないって決めてるから」


莉央は唇を噛んで、
俯いた。

自分が勝手に不安になって、
蓮を困らせてしまったことが申し訳なくて。



「……ごめん」
「謝んなくていい」
「うん……」

「ただ、勝手に身を引くのだけはやめて」


「……うん」

蓮は莉央を抱きしめた。



ふわりと鼻をくすぐる、
いつもの蓮の匂い。


それを感じた瞬間、

胸の奥にあった不安が、


少しずつ溶けていくようだった。



聞こえてくる鼓動と、
背中をゆっくり撫でる手の温かさに、
莉央はようやく小さく息を吐いた。



莉央の身体から少しずつ
力が抜けていくのを感じて、


蓮もようやく安心したように、


ふっと息を吐いた。








その時は、それで終わったと思っていた。









 ─────

 

その頃、美玲は。


携帯に映る蓮とのやりとりを、
じっと見つめていた。




その表情には、

まだ諦めた様子はなかった。