20年以上前の話になるが、年度末になると、この議題について必ず勤務時間をはるかに越える超ロングの会議があり、コンビニおにぎりや菓子類を囲んで延々議論したものだった。
議題は「来年度の学習グループ分け」。昨今は進路指導とからみ合わせて「類型化」と呼ばれるようになってきているが、障害児学校では大抵、子どもの能力に応じて学習グループを編成している。
当時は、「重度」の1グループ、身体の動きのある元気な2グループ、簡単な作業や読み書き計算の学習が可能な3グループ、教科学習にとりくむ4グループ、というのが基本編成。議論が膠着するのは、グループ間のグレーゾーンにいる子ども、子どもの実態と違うグループ所属を保護者が希望している子どもだ。
多くの教員は、この会議に対する思い入れが強く、「この子の発達段階は今この段階だから、来年度から○グループに移るのがいいのでは?」「いや、まだ積み残しになっている課題が多いから、引き続き△グループにすべき」などなど、答えの出ない議論が紛糾する。私は、しらけた顔で黙っておにぎりをかじりながら、時計を見つめているだけの「不マジメ教員」だ。
平素から校内研修会では、乳幼児の発達の道筋などについての研修が何度も行なわれ、学校独自で「発達段階票」を作成している。この研修会も、正直言って出るたびにうんざりしている。
「○○ができたら○才○ヶ月の発達段階、だからタツヤくんは引き続き2グループがいいのでは」式の議論をげんなりした表情で聞いていると、同僚の一人が「先生、これは子どもたちのためにとても大切な話なんです!」と言ってきた。はいはい、全く仰せの通り。ここで彼に「でもさ、……」と疑問を呈したところで、とても聞く耳をもってもらえるとは思えない。勤務時間を過ぎても延々と終わりのない議論が続く。とっとと帰りたいが、立ち上がるタイミングをつかむこともできず、ひたすら時の過ぎるのを待っている。
ある年、この議論に、この年から私が担当しているミチオが話題にのぼった。ミチオは保護者の強い希望で小1の時から3グループ所属だったが、毎年のようにこの会議をにぎわしてきた生徒の一人だった。
ミチオは脳性マヒで、アーアーと声を出すのが精一杯。例年どおり、多くの教員はミチオは文字や数を学習する発達段階に至っていないので、2グループが相応しいのでは、という意見だった。この会議で来年度のミチオのグループ所属が決まってしまう。今回ばかりはのんびりおにぎりをかじっている場合ではない。
私は、どんなに精緻な発達段階票を作ろうが、子どもを分けることに大きな限界があると感じている。分ける議論は、なにかうそ寒いものを感じる。
ミチオは3グループで1年間、友だちと一緒にピンポン玉を数え、紙芝居を見、文字カードを並べた。文字も数も傍目には「全く理解していない」状態だが、笑顔いっぱいで「アーアー」と授業を楽しんでいた。ある日、ミチオは私のトレーナーについたミッキーマウスを指差し、自分の着ているトレーナーのミッキーを指差し、「アーアー」と言ってきた。「同じだね」と話しかけてきたのだ。
会議で、ミチオの保護者が今のグループを希望していることの他、私は子どもをグループに当てはめるのでなく、グループの教員が子どもの実態に合わせていくこと、ミチオと同じグループの生徒たちとが1年間で結んできた関係を大切にしたいことを訴えた。ミチオは、2年目も3グループ、ということに落ち着いたのでほっとした。ただし、議論を決めたカギは私の意見ではなく、例年通り保護者の希望に沿う、という部分だった。
議題は「来年度の学習グループ分け」。昨今は進路指導とからみ合わせて「類型化」と呼ばれるようになってきているが、障害児学校では大抵、子どもの能力に応じて学習グループを編成している。
当時は、「重度」の1グループ、身体の動きのある元気な2グループ、簡単な作業や読み書き計算の学習が可能な3グループ、教科学習にとりくむ4グループ、というのが基本編成。議論が膠着するのは、グループ間のグレーゾーンにいる子ども、子どもの実態と違うグループ所属を保護者が希望している子どもだ。
多くの教員は、この会議に対する思い入れが強く、「この子の発達段階は今この段階だから、来年度から○グループに移るのがいいのでは?」「いや、まだ積み残しになっている課題が多いから、引き続き△グループにすべき」などなど、答えの出ない議論が紛糾する。私は、しらけた顔で黙っておにぎりをかじりながら、時計を見つめているだけの「不マジメ教員」だ。
平素から校内研修会では、乳幼児の発達の道筋などについての研修が何度も行なわれ、学校独自で「発達段階票」を作成している。この研修会も、正直言って出るたびにうんざりしている。
「○○ができたら○才○ヶ月の発達段階、だからタツヤくんは引き続き2グループがいいのでは」式の議論をげんなりした表情で聞いていると、同僚の一人が「先生、これは子どもたちのためにとても大切な話なんです!」と言ってきた。はいはい、全く仰せの通り。ここで彼に「でもさ、……」と疑問を呈したところで、とても聞く耳をもってもらえるとは思えない。勤務時間を過ぎても延々と終わりのない議論が続く。とっとと帰りたいが、立ち上がるタイミングをつかむこともできず、ひたすら時の過ぎるのを待っている。
ある年、この議論に、この年から私が担当しているミチオが話題にのぼった。ミチオは保護者の強い希望で小1の時から3グループ所属だったが、毎年のようにこの会議をにぎわしてきた生徒の一人だった。
ミチオは脳性マヒで、アーアーと声を出すのが精一杯。例年どおり、多くの教員はミチオは文字や数を学習する発達段階に至っていないので、2グループが相応しいのでは、という意見だった。この会議で来年度のミチオのグループ所属が決まってしまう。今回ばかりはのんびりおにぎりをかじっている場合ではない。
私は、どんなに精緻な発達段階票を作ろうが、子どもを分けることに大きな限界があると感じている。分ける議論は、なにかうそ寒いものを感じる。
ミチオは3グループで1年間、友だちと一緒にピンポン玉を数え、紙芝居を見、文字カードを並べた。文字も数も傍目には「全く理解していない」状態だが、笑顔いっぱいで「アーアー」と授業を楽しんでいた。ある日、ミチオは私のトレーナーについたミッキーマウスを指差し、自分の着ているトレーナーのミッキーを指差し、「アーアー」と言ってきた。「同じだね」と話しかけてきたのだ。
会議で、ミチオの保護者が今のグループを希望していることの他、私は子どもをグループに当てはめるのでなく、グループの教員が子どもの実態に合わせていくこと、ミチオと同じグループの生徒たちとが1年間で結んできた関係を大切にしたいことを訴えた。ミチオは、2年目も3グループ、ということに落ち着いたのでほっとした。ただし、議論を決めたカギは私の意見ではなく、例年通り保護者の希望に沿う、という部分だった。

