――そして、今日。
彼女は、あの真っ黒な絵の前で立ち尽くしていた。長い間、動かなかった。本当は――見せるべきではなかったのかもしれない。翼だって、きっと見せたくなかったのだろう。
真っ黒なキャンバス。そこには、何もない。いや。何もないように見えるだけだった。
「これで、よかったのか?」
思わず、翼に問いかける。生きているうちに、ちゃんと向き合うべきだったんじゃないのか。彼女と、ちゃんと話すべきだったんじゃないのか。そんな思いが、胸を締めつける。やがて彼女は、ゆっくりと立ち上がった。
そして――歩いていった。これで終わりなのだと思った。
けれど。
しばらくして、彼女が慌てたように戻ってきた。さっきまでとは違う。必死な目をしていた。膝から血が滲んでいることすら気にも留めていなかった。
彼女はもう一度、真っ黒なキャンバスの前に立った。何を見ているのか。わしには、わからなかった。ただ――。
しばらくして彼女が立ち上がったときその顔は、どこか晴れやかだった。
その背中を見送ってから、わしは絵の前に立った。そして――息を呑んだ。
真っ黒だったはずのキャンバス。そこには、桜の花びらが舞っていた。その下で、二人の男女が笑い合っている。そして、その二人のそばを――一羽の白い鳥が飛んでいた。
「…翼」
思わず、その名がこぼれた。胸の奥に、ほんの少しだけ光が差し込んだような気がした。もう、いない。どれだけ願っても、あの子は帰ってこない。それでも。翼が残したものは、ちゃんとここにある。彼女の中にも。この絵の中にも。そう思った瞬間――。一筋の涙が頬を伝った。
「…そうか」
わしは、絵を見つめながら小さく息を吐いた。
「ちゃんと、飛べたんだな」
もう一度だけ、願う。どうか。もし生まれ変わることがあるのなら。今度は、何も恐れずに。大切な人の隣で、生きてほしい。
「飛べ。翼」
声が震えた。それでも、もう一度。
「高く、高く。どこまでも」
ぽつりと落ちた言葉が、美術館の静けさに溶けていく。そして――。月影美術館の窓から差し込む光が、二人と一羽の白い鳥を、静かに照らしていた。
彼女は、あの真っ黒な絵の前で立ち尽くしていた。長い間、動かなかった。本当は――見せるべきではなかったのかもしれない。翼だって、きっと見せたくなかったのだろう。
真っ黒なキャンバス。そこには、何もない。いや。何もないように見えるだけだった。
「これで、よかったのか?」
思わず、翼に問いかける。生きているうちに、ちゃんと向き合うべきだったんじゃないのか。彼女と、ちゃんと話すべきだったんじゃないのか。そんな思いが、胸を締めつける。やがて彼女は、ゆっくりと立ち上がった。
そして――歩いていった。これで終わりなのだと思った。
けれど。
しばらくして、彼女が慌てたように戻ってきた。さっきまでとは違う。必死な目をしていた。膝から血が滲んでいることすら気にも留めていなかった。
彼女はもう一度、真っ黒なキャンバスの前に立った。何を見ているのか。わしには、わからなかった。ただ――。
しばらくして彼女が立ち上がったときその顔は、どこか晴れやかだった。
その背中を見送ってから、わしは絵の前に立った。そして――息を呑んだ。
真っ黒だったはずのキャンバス。そこには、桜の花びらが舞っていた。その下で、二人の男女が笑い合っている。そして、その二人のそばを――一羽の白い鳥が飛んでいた。
「…翼」
思わず、その名がこぼれた。胸の奥に、ほんの少しだけ光が差し込んだような気がした。もう、いない。どれだけ願っても、あの子は帰ってこない。それでも。翼が残したものは、ちゃんとここにある。彼女の中にも。この絵の中にも。そう思った瞬間――。一筋の涙が頬を伝った。
「…そうか」
わしは、絵を見つめながら小さく息を吐いた。
「ちゃんと、飛べたんだな」
もう一度だけ、願う。どうか。もし生まれ変わることがあるのなら。今度は、何も恐れずに。大切な人の隣で、生きてほしい。
「飛べ。翼」
声が震えた。それでも、もう一度。
「高く、高く。どこまでも」
ぽつりと落ちた言葉が、美術館の静けさに溶けていく。そして――。月影美術館の窓から差し込む光が、二人と一羽の白い鳥を、静かに照らしていた。



