君のとなり 〜約束の168〜

 校門の前に立った瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。

 今日で、この場所ともお別れ。

 何度も通った道。
 何度もくぐった校門。
 笑った日も、泣いた日も、悔しくて俯いた日もあった。

 そして――恋をした場所。

 教室。
 廊下。
 階段。
 部活の時間。
 放課後の帰り道。

 振り返れば、どこにでも思い出があった。

「瑠夏」

 名前を呼ばれて振り向く。

 そこには、いつもの笑顔の翔がいた。

「おはよう」

「……おはよう、翔」

 たったそれだけの言葉なのに、胸がいっぱいになる。

 今日も翔がいる。

 それが、嬉しくて。
 それなのに、どうしようもなく切なかった。

 卒業式が始まった。

 体育館に響く校歌。
 校長先生の言葉。
 卒業証書を受け取る音。

 全部が、少しずつ「最後」になっていく。

 名前を呼ばれ、前へ進む。

 卒業証書を受け取った瞬間、胸の奥から込み上げてくるものがあった。

 高校生活が終わる。

 分かっていたはずなのに。

 こんなにも、寂しいなんて思わなかった。

 式が終わる頃には、あちこちからすすり泣く声が聞こえていた。

 私も何度も涙を拭った。

 長かったような、短かったような高校生活が、今日で終わる。

 その寂しさを胸に抱えたまま、私は卒業証書を手に体育館を出た。

 人の流れの向こうに、翔の姿が見えた。

 私に気づいた翔が、ほんの少し笑った。

 それだけで、涙がまた溢れそうになった。

 体育館を出ると、友達や後輩たちが次々に集まってきた。

「瑠夏先輩、卒業おめでとうございます!」

「翔先輩も!」

「写真撮ろう!」

「最後だから、いっぱい撮ろうよ!」

 笑い声が飛び交う。

 肩を寄せ合って写真を撮って。

 後輩たちから寄せ書きをもらって。

 友達と何度も「また会おうね」と言い合って。

 笑っているのに、涙が出る。

 泣いているのに、笑ってしまう。

 そんな不思議な時間だった。

 やがて人が少なくなって、校舎の中も静かになっていく。

 私は翔を見る。

「……行く?」

「ああ」

 私たちは、二人だけで歩き出した。

 向かったのは、体育館の二階。

 何度も一緒に過ごした、あの場所。

 扉を開ける。

 春の光に包まれたグラウンドを眺めていると、つい昨日までのことみたいに、いろんな記憶が蘇ってきた。

「ここも、最後だな」

「……うん」

 翔が、少し離れたところで立ち止まる。

 そして――後ろ手に隠していたものを、私の前へ差し出した。

「これ」

「……え?」

 そこには、一つの花束。

 私が好きな色。

 私に似合うと思って選んでくれたのだと、すぐに分かった。

「卒業、おめでとう」

 その言葉だけで、胸がいっぱいになった。

「……ありがとう」

 花束を受け取る。

 指先に触れた花びらが、優しく揺れた。

「瑠夏に似合うと思って」

「……翔、ずるい」

「何が?」

「こんなの……泣いちゃうよ」

 笑いながら涙を拭うと、翔も笑った。

「泣いていいだろ。今日くらい」

「翔も泣いてるじゃん」

「これは……汗」

「ふふっ」

「笑うなよ」

「だって……」

 また笑ってしまう。

 それから私たちは、並んで座った。

 ここで過ごした時間を、一つずつ思い出すように。

 思い出を一つずつ口にするたび、胸の奥が温かくなる。

 楽しかったこと。

 嬉しかったこと。

 泣いたこと。

 すれ違ったこと。

 それでも最後には、ちゃんと隣に戻ってこられたこと。

 話しても話しても、思い出は尽きなかった。

 全部が、私たちの高校生活だった。

「……いろいろあったね」

「うん」

「長かったような、短かったような……」

「俺は、短かった」

 翔が、静かに言った。

「もっと瑠夏と一緒にいたかった」

 胸が痛くなる。

 私も同じだった。

「私も……」

 窓の外を見る。

 春の光が、体育館の床に細く差し込んでいる。

 もう制服を着て、この場所に来ることはない。

 そう思った瞬間、急に寂しさが込み上げた。

「今日で、制服も最後なんだね」

「そうだな」

「明日から、私たち高校生じゃないんだ」

「うん」

 時間は、止まってくれない。

 どれだけ大切に思っても。

 どれだけ、この瞬間を終わらせたくなくても。

 季節は進んでいく。

 高校生活も、今日で終わる。

 でも――

「ねえ、翔」

「ん?」

「これからも……隣にいてくれる?」

 翔は、少しだけ目を見開いた。

 そして、優しく笑った。

「当たり前だろ」

「……本当に?」

「俺がどれだけ瑠夏の隣にいたいと思ってると思う?」

「分かんない」

「じゃあ、これから分からせる」

 その言葉に、胸が熱くなる。

 次の瞬間。

 翔の腕が、私を包み込んだ。

「……翔」

 ぎゅっと抱きしめられる。

 制服越しに伝わる温もり。

 何度もこうして抱きしめてもらったはずなのに。

 今日は、少し違って感じた。

 高校生の私たちとして抱き合えるのは、これが最後だから。

「……離れたくない」

 私が呟くと、翔の腕に少しだけ力がこもった。

「俺も」

「ずっと、このままがいい」

「うん」

「時間、止まればいいのに」

「……止まらなくてもいいよ」

 翔の声が、すぐそばで響く。

「時間が進んでも、俺が瑠夏の隣にいるから」

 涙が、頬を伝った。

 私は翔の胸に顔を埋めた。

 この温もりを忘れたくない。

 今日のことを。

 この場所を。

 翔と過ごした高校生活を。

 全部、心の中にしまっておきたい。

 やがて翔が、そっと私の顔を上げさせた。

 目が合う。

 何も言わなくても、気持ちは分かった。

 翔の顔がゆっくり近づいてくる。

 私は目を閉じた。

 唇が、そっと重なる。

 短くて、優しいキス。

 でも、その瞬間。

 高校生活の全部が、胸の中を駆け抜けていった。

 嬉しかった日も。

 泣いた日も。

 悔しかった日も。

 翔に恋をした、あの日も。

 全部、全部。

 大切な思い出。

 唇が離れる。

 翔が、私の額にそっと自分の額を重ねた。

「卒業、おめでとう。瑠夏」

「……翔も」

 涙を流しながら笑う。

 窓の向こうには、春の空が広がっていた。

 今日で、私たちの高校生活は終わる。

 だけど。

 私たちの物語は、終わらない。

 制服を脱いでも。

 この校舎を離れても。

 季節がいくつ巡っても。

 私はきっと思い出す。

 この場所で、翔と笑ったこと。

 泣いたこと。

 そして――

 最後まで、君のとなりにいたこと。

 これから先も。

 私は、君のとなりにいたい。

 そう願いながら、私は翔の手を握った。

 春の光の中で。

 二人の新しい時間が、静かに始まった。

――高校編・完。