君のとなり 〜約束の168〜

高校生活最後の体育祭が終わった。

校庭には、まだ競技を終えた生徒たちの声が響いていた。

私は翔と並んで校舎へ向かっていた。

「疲れたぁ」

「お疲れ」

「翔もお疲れさま」

「瑠夏もな」

顔を見合わせて笑う。

いつもと変わらない翔の笑顔。

その笑顔を見ていると、胸の奥に引っかかっていたものが少しずつほどけていく気がした。

今日なら――言えるかもしれない。

ずっと言えずにいた、進路のこと。

私は、そっと手にしていたハチマキを見た。

体育祭の最後に、二人で交換したハチマキ。

翔からもらったそれを、大切に握りしめる。

「翔」

「ん?」

「……話したいことがあるの」

「何?」

私は一度、深く息を吸った。

「私……関東の大学に行くことにした」

翔の表情が止まった。

「……関東?」

「うん」

「どうして?」

「大学で勉強したいことがあって。それに……」

私は少しだけ笑った。

「モデルの仕事も、大学に通いながら少しずつやってみようと思ってる」

翔は何も言わなかった。

応援してくれる。

そう思っていた。

だって翔なら。

私がやっと見つけた未来を、一緒に喜んでくれると思っていた。

けれど――

「……俺は、反対」

「……え?」

聞き間違いかと思った。

「関東なんて遠すぎるだろ」

「でも……」

「瑠夏、考え直したほうがいい」

胸の奥が、ずきっと痛んだ。

「……どうして?」

「遠距離になるんだぞ」

「分かってるよ」

「簡単に会えなくなるだろ」

「それも分かってる」

「だったら――」

「翔!」

思わず声が大きくなった。

「翔だって、自分の夢、私に相談なく自分で決めたじゃない!」

翔が言葉を失う。

「それは!」

少し間を置いて、翔が苦しそうに言った。

「……地元の大学だから」

「でも、瑠夏はそうじゃないだろ」

その言葉に、胸が締めつけられる。

「私は……」

声が震えた。

「私は、やっと自分がやりたいことを見つけたの」

モデルのこと。

大学のこと。

これからの自分のこと。

何度も悩んで、自分で考えて決めた。

「翔なら……応援してくれると思ったのに……」

視界が滲む。

涙が溢れそうになる。

翔が何か言おうとした。

「瑠夏……」

私は首を横に振った。

これ以上、聞きたくなかった。

手の中にあったハチマキを見る。

さっきまで、嬉しい気持ちで交換したもの。

それを翔に押し返した。

「……これ」

翔が受け取る。

「瑠夏……」

私は何も言えなかった。

涙が頬を伝う。

そのまま、翔に背を向けた。

走った。

名前を呼ぶ声が、後ろから聞こえた気がした。

それでも振り返らなかった。

ただ、涙を拭いながら走った。



それから、私たちはしばらく会わなくなった。

放課後に一緒に帰ることもなくなった。

昼休みに屋上へ行くこともない。

翔からメールが届く。

『今日、少し話せない?』

画面を見つめる。

返信を打つ。

『ごめん。今日は無理』

それだけ。

別の日には、

『元気?』

と届く。

しばらく迷ってから、

『うん』

と短く返す。

それ以上は、何も書けなかった。

翔も、それ以上何も言わなかった。

でも――

きっと翔も、苦しんでいる。

私にも、それが分かっていた。



翔は一人、机に向かっていた。

目の前には参考書。

けれど、文字がまったく頭に入ってこない。

考えているのは、あの日のことばかりだった。

どうして俺は、反対したんだろう。

瑠夏が自分で決めたことなのに。

やっと見つけた、やりたいことなのに。

本当は――

応援してやりたい。

「……分かってるよ」

誰もいない部屋で、翔が呟く。

瑠夏が悪いわけじゃない。

夢を追うことが悪いわけでもない。

分かっている。

それでも。

関東という言葉を聞いた瞬間、怖くなった。

遠く離れてしまうこと。

今までみたいに会えなくなること。

自分の知らない場所で、瑠夏が新しい世界へ進んでいくこと。

そして――

いつか、自分の知らない誰かに瑠夏を奪われてしまうんじゃないか。

そんなことまで考えてしまった。

「……俺、何やってんだよ」

翔は頭を抱えた。

反対したいわけじゃない。

瑠夏の夢を止めたいわけでもない。

ただ、離れたくなかった。

それだけだった。

でも、その気持ちをうまく言葉にできなかった。

机の上には、あの日、瑠夏から押し返されたハチマキが置かれている。

翔はそれを手に取った。

体育祭の日。

笑いながら交換したはずだった。

あのときは、こんな未来になるなんて思わなかった。

「……瑠夏」

会いたい。

話したい。

ちゃんと伝えたい。

――応援したい。

それなのに。

どうすれば、瑠夏に届くのか分からない。

翔の頭の中も、ぐちゃぐちゃだった。