君のとなり 〜約束の168〜

5月中旬。

高校三年生になった瑠夏の毎日は、以前よりずっと忙しくなっていた。

学校が終われば、まずは部活。

その練習を終えると、そのまま新体操クラブへ向かう。

夏の最後の大会までの期間限定で、小学生の頃に通っていたクラブで、もう一度練習を見てもらうことになったのだ。

そして――帰宅してからは受験勉強。

最後の大会まで、もう時間がない。

受験も待ってくれない。

どちらも、手を抜くわけにはいかなかった。



「瑠夏!」

「コーチ!」

久しぶりに開けた体育館の扉。

懐かしい床。

懐かしい匂い。

そして、昔と変わらないコーチの声。

「久しぶりね」

「はい! よろしくお願いします!」

「じゃあ、さっそく見せて」

「はい!」

音楽が流れる。

瑠夏は手具を持ち、演技を始めた。

けれど――。

「瑠夏!」

「はい!」

音楽が止まる。

「腕!」

「……はい」

「しっかり腕伸ばす!」

「はい!」

「もっと!」

瑠夏が腕を伸ばす。

「そう。そこまで伸ばす」

再び音楽。

数秒後。

「指先!」

「はい!」

「汚い!」

「……はい!」

「最後まで神経を通して!」

「はい!」

また音楽が止まる。

「ターン!」

「……っ」

「遅いよ!」

「はい!」

「音に置いていかれてる!」

「はい!」

容赦がない。

昔から知っているコーチだからこそ、甘くない。

何度も止められる。

何度もやり直す。

汗が額を伝う。

息が上がる。

それでも瑠夏は、手具を握り直した。

「もう一回、お願いします!」

「……よし」

コーチが頷く。

「その気持ちがあるなら、まだ伸びる」

「はい!」

もう一度。

音楽が流れる。

腕を伸ばす。

指先まで意識する。

身体の軸を取る。

ターン。

跳ぶ。

着地。

「もう一回!」

「はい!」

最後の大会まで、時間がない。

だからこそ、一秒も無駄にしたくなかった。



新体操クラブを出る頃には、すっかり夜になっていた。

「ありがとうございました!」

「明日も来るんでしょう?」

「はい!」

笑顔で答える。

家に着けば、夕食。

シャワー。

そして――机に向かう。

時計を見る。

もう遅い。

それでも、参考書を開いた。

英単語。

数学。

古文。

模試の復習。

学校の課題。

鉛筆を走らせる。

眠い。

身体も疲れている。

それでも、やめられない。

受験生だから。

そして、夏には最後の大会がある。

どちらも、瑠夏にとって大切なものだった。

ふと、スマホが震えた。

翔からだった。

《まだ勉強してる?》

瑠夏は少し笑って、

《うん。今やってる》

と返す。

すぐに返信が来る。

《今日も新体操、お疲れ》

《翔も部活お疲れさま》

《無理すんなよ》

その一言に、瑠夏の胸が少しだけ温かくなる。

《ありがとう》

スマホを伏せる。

そして、もう一度参考書を見る。

恋人になって、半年以上。

もっと翔と一緒にいたい。

もっと話したい。

でも今は――。

それぞれが、自分の未来に向かって頑張る時間。

瑠夏は深く息を吸った。

「……頑張ろう」

最後の夏まで、時間がない。

受験までの時間も、限られている。

だから――。

今日も、もう一問。

もう一ページ。

そして明日も。

部活。

新体操。

勉強。

忙しい毎日の先にある、最後の夏を悔いなく迎えるために。

瑠夏は、静かな夜の中で参考書に向き合い続けた。