君のとなり 〜約束の168〜

5月。

新しい学年が始まって一か月。

校庭には、新入部員たちの元気な声が響いていた。

陸上部にも何人もの一年生が加わり、去年までとは少し違う賑やかさがある。

翔も三年生になった。

今では、後輩たちに声をかけ、練習を見てやる立場だ。

「先輩、これで合ってますか?」

「うん。もう一回やってみ」

一年生が助走を始める。

翔は少し離れたところから、その動きをじっと見つめていた。

「踏み切る位置、もうちょっと手前」

「はい!」

「あと、最初から高く跳ぼうとしなくていい。まずは踏み切りを合わせること」

「わかりました!」

一年生がもう一度走り出す。

翔はその姿を見ながら、小さく頷いた。

自分が教えてもらっていた頃とは違う。

今度は、自分が伝える番だ。

そんな翔の姿を――

体育館のバルコニーから、瑠夏が見ていた。

ここから校庭を見るのは、もう癖みたいなものだった。

高校に入ってから、何度この場所に立っただろう。

練習の合間に。

帰る前に。

ふと校庭を覗いて、翔の姿を探してしまう。

今は、わざわざ探さなくてもいい。

だって翔は、自分のところへ来てくれる。

それでも。

校庭のどこかに翔の姿を見つけると、瑠夏の顔は自然とほころんだ。

「……翔、先輩してるな」

後輩に声をかける姿。

真剣な横顔。

失敗した後輩に、もう一度やってみろと笑って声をかける姿。

少し前まで、自分たちも先輩たちを追いかけていたのに。

気づけば、自分たちが追いかけられる側になっている。

三年生になったんだな。

そんなことを思って、瑠夏は小さく笑った。

そして、自分も新体操部では同じだった。

「そこ、もう少し腕を伸ばして」

「はい!」

「そう。その感じ。もう一回やってみよう」

後輩たちを指導しながら、自分の練習にも取り組む。

キャプテンとして、ちゃんとしなきゃ。

そう思うようになった。

そして――

あの新しい技も、少しずつ形になってきている。

ボールを床へ転がす。

その軌道のすぐそばを、身体を躍らせるように跳び越える。

ほんの少しでもタイミングを間違えれば、足がボールに乗ってしまう。

以前、右足をボールに乗せて転倒した技。

あの時は、頭を打って脳震盪まで起こした。

怖かった。

もうやりたくないと思った。

それでも、瑠夏は諦めなかった。

何度も練習して。

何度も失敗して。

ようやく今では、自分の技として形になってきた。

「よし……」

最後の演技を終え、瑠夏は額の汗を拭った。

時計を見る。

今日は、いつもより少し早く練習が終わった。

体育館を出て、校庭へ向かう。

陸上部はまだ練習中。

翔は、もう少しかかりそうだった。

「……待ってよ」

瑠夏はフェンスの近くのベンチで翔を待つことにした。

スマホを眺めながら、ときどき校庭へ視線を向ける。

すると――

一年生の男子たちが、瑠夏に気づいた。

「なあ、あの先輩……」

「ん?」

「めっちゃ可愛くない?」

「新体操部の先輩だよな?」

「そうそう」

「めっちゃスタイルいい……」

「モデルみたいじゃね?」

「彼氏いるのかな」

「いなかったら、俺……」

男子たちが小声で盛り上がっている。

もちろん、瑠夏には聞こえていない。

けれど――

その会話は翔の耳に入っていた。

翔はちらりと瑠夏を見る。

フェンスの近くで、スマホを見ながら自分を待っている。

その姿を見た瞬間、口元が緩んだ。

そして一年生たちに向かって、

「だーめ」

「え?」

一年生たちが振り返る。

翔は笑いながら、瑠夏のほうへ歩いていく。

「瑠夏は俺の彼女」

「えっ!?」

「先輩の彼女なんですか!?」

「そう」

翔は当たり前のように答える。

そして瑠夏のところまで来ると、

「待たせた?」

「ううん」

瑠夏が顔を上げる。

「今日、早かったんだな」

「うん。翔を待ってた」

その言葉を聞いて、翔の顔がさらに嬉しそうになる。

「そっか」

そして自然な動きで、瑠夏の肩に腕を回した。

ぐっと自分のほうへ引き寄せる。

瑠夏の側頭部が、翔の胸に触れた。

「……翔」

「ん?」

「みんな見てる」

「いいじゃん」

翔は笑う。

「俺の彼女だって、知ってもらったし」

「もう……」

瑠夏の頬が赤くなる。

翔はそんな瑠夏を見下ろして、少しだけ笑った。

そして、頭を優しく撫でる。

「可愛い」

「……聞こえてる」

「聞こえるように言った」

「翔って……最近、こういうの平気だよね」

「何が?」

「みんなの前で、こういうことするの」

翔は少し考えるような顔をしてから、

「だって、もう隠す必要ないだろ?」

「……そうだけど」

「俺、瑠夏の彼氏だから」

「うん」

「それに――」

翔は繋いだ手を探すように、瑠夏の手に自分の指を絡める。

「こうしてるの、好き」

瑠夏は俯いた。

耳まで赤くなっている。

「……私も」

小さな声。

「ん?」

「私も、好き」

翔の顔がぱっと明るくなる。

「もう一回」

「言わない」

「なんで?」

「恥ずかしいから」

「じゃあ、俺が言う」

翔は笑って、繋いだ手をぎゅっと握った。

「俺は瑠夏が好き」

「……もう」

瑠夏は笑いながら、翔の肩に少しだけ身体を寄せる。

その様子を見ていた一年生たちは、完全に呆気にとられていた。

「……先輩、めっちゃラブラブじゃん」

「羨ましい……」

「俺も彼女ほしい」

翔が聞こえていたのか、振り返る。

「頑張れ」

一年生たちが苦笑する。

瑠夏は思わず吹き出した。

「翔、意地悪」

「何が?」

「後輩に自慢してる」

「だって、自慢したいじゃん」

「……翔ったら」

瑠夏は笑いながら、翔の制服の袖をつまんだ。

翔はその手を取る。

指を絡める。

「帰ろ」

「うん」

二人並んで歩き出す。

体育館のバルコニーから、何度も見ていた翔の姿。

あの頃は、ただ遠くから眺めていた。

今は違う。

練習が終われば、翔は自分のところへ来てくれる。

手を繋いで、一緒に帰る。

隣にいることが、当たり前になっている。

それが、瑠夏には嬉しかった。

夕暮れの校庭を抜ける。

翔が繋いだ手を、もう一度ぎゅっと握った。

瑠夏も握り返す。

二人はそのまま、並んで校門を出ていった。