君のとなり 〜約束の168〜

3月1日

体育館には、いつもとは違う空気が流れていた。

壇上には卒業証書。

整然と並べられた椅子。

その一番前に座る卒業生たちの中に、拓実先輩がいる。

瑠夏は、送辞を読むために壇上へ向かった。

一歩、また一歩。

マイクの前に立つ。

客席に並ぶ在校生。

そして――卒業生。

瑠夏の視線が、拓実先輩を捉えた。

目が合う。

ほんの一瞬。

拓実先輩が、いつものように優しく笑った。

その笑顔を見た瞬間、胸の奥にいくつもの記憶が蘇った。

初めて出会った文化祭。

一緒に準備をした時間。

抱きしめてもらったこと。

二人で見た花火。

最後の大会。

そして――別れ。

楽しかったことも。

嬉しかったことも。

何度も泣いたことも。

その全部が、今日という日に繋がっている。

瑠夏は、溢れそうになる涙をそっと拭った。

もうすぐ、この人は卒業する。

大切だった人の、高校最後の日。

そう思ったら、また涙がこぼれそうになった。

瑠夏は小さく息を吸った。

そして、送辞を読み始める。

声が震えないように。

最後まで、ちゃんと伝えられるように。

拓実先輩への感謝を込めて。

* * *

送辞が終わる。

瑠夏が壇上を降りると、今度は卒業生代表の答辞。

拓実先輩が立ち上がった。

壇上へ向かう背中を見つめる。

拓実先輩がマイクの前に立つ。

そして、答辞を読み始めた。

落ち着いた声。

いつもの拓実先輩らしい、優しい声。

その声を聞いているだけで、また胸がいっぱいになる。

瑠夏は何度も涙を拭った。

答辞を読む拓実先輩の声を聞きながら、瑠夏の胸には、これまでの時間が次々と浮かんでくる。

全部、大切な思い出だった。

やがて答辞が終わる。

大きな拍手が体育館を包んだ。

瑠夏も、涙を流しながら拍手をした。

拓実先輩は一礼して、壇上を降りる。

その横顔を見ながら、瑠夏は思った。

――今日で、本当に卒業なんだ。

* * *

式が終わった校庭は、笑顔でいっぱいだった。

卒業生たちは友達と写真を撮ったり、後輩から花束を受け取ったりしている。

あちらこちらから笑い声が聞こえる。

そんな中。

少し離れた場所で、瑠夏は拓実先輩と向かい合っていた。

「瑠夏」

「はい」

「送辞、ありがとう」

「……こちらこそ」

瑠夏は涙を拭いながら笑った。

「答辞、すごくよかったです」

「そっか」

拓実先輩も笑う。

ほんの少しだけ、寂しそうに。

二人の間に、静かな時間が流れた。

もうすぐ、この人はこの学校からいなくなる。

今までみたいに廊下ですれ違うこともない。

「拓実先輩」と呼ぶことも、これまでのようにはなくなる。

拓実がふっと空を見上げる。

「……いろいろあったな」

瑠夏も空を見上げた。

「……はい」

短い言葉。

それだけで、二人には十分だった。

拓実が瑠夏を見る。

「楽しかったよ」

その言葉に、瑠夏の目からまた涙がこぼれた。

「私も……」

声が震える。

拓実は、そんな瑠夏を見て優しく笑った。

そして――

「瑠夏」

「はい」

「ありがとう」

その一言とともに、拓実がそっと瑠夏を抱きしめた。

一瞬だけ。

強くもなく。

恋人だった頃のような抱きしめ方でもない。

ただ、これまで一緒に過ごした時間に「ありがとう」を伝えるための抱擁。

瑠夏は涙を流しながら、そっと拓実の背中に手を回した。

「……拓実先輩」

「うん」

「……ありがとうございました」

拓実の腕が、ゆっくり離れる。

そして最後に――

いつもの、優しい笑顔。

「じゃあな、瑠夏」

「……はい」

拓実は振り返る。

そして、待っている卒業生たちの輪の中へ戻っていった。

瑠夏は、その背中を見つめる。

涙を拭っても、また溢れてくる。

それでも、最後には少しだけ笑った。

――拓実先輩に出会えてよかった。

あの日、文化祭で出会えたこと。

好きになれたこと。

一緒に笑えたこと。

そして、今日ここで「ありがとう」と言えたこと。

全部が、瑠夏の大切な思い出。

拓実先輩の背中が、人の輪の向こうへ消えていく。

瑠夏はもう一度だけ、小さく呟いた。

「……ありがとうございました」

その声は、もう拓実には届かない。

けれど――

瑠夏の胸の中には、いつまでも残っていた。