君のとなり 〜約束の168〜

バレンタイン当日。

朝から校内は、いつもより少しだけ浮ついた空気に包まれていた。

廊下を歩く女子たちの手には、小さな袋や箱。

その中でも、ひときわ人目を集めているのは――拓実先輩だった。

「拓実先輩、これ……」

「よかったら、受け取ってください」

「先輩、これも……」

次から次へと差し出されるチョコレート。

拓実先輩は、少し困ったように笑いながらも、一つひとつ丁寧に受け取っていく。

「ありがとう」

「ありがとうございます……!」

渡した女子たちは、それだけで嬉しそうに友達のもとへ戻っていく。

さすが、学校でも有名な人気者。

拓実先輩の腕には、いつの間にかたくさんのチョコが抱えられていた。

そんな光景を横目に、翔は登校すると、真っ先に瑠夏の教室へ向かった。

今日はバレンタイン。

会えると思っていた。

教室の入り口から中を覗く。

けれど――

「……あれ?」

瑠夏の姿がない。

いつもの席にも、いない。

翔は教室の中を見渡した。

「瑠夏、まだ来てない?」

近くにいたクラスメイトに声をかける。

「ああ、瑠夏なら今日休みだよ」

「え?」

「風邪ひいたらしい」

「……風邪?」

翔の表情が、一気に曇った。

慌ててスマホを取り出す。

画面を見ると、瑠夏からメッセージが届いていた。

『翔、おはよう。今日、風邪ひいちゃったから学校お休みするね』

「……なんだ」

ちゃんと連絡をくれていたことに、少しだけ安心する。

けれど――

「……会いたかったな」

今日はバレンタイン。

瑠夏に会いたかった。

顔を見たかった。

少しでも話したかった。

それなのに、今日は会えない。

翔がスマホを見つめていると――

「翔先輩……」

声をかけられた。

振り向く。

そこに立っていたのは、一人の後輩だった。

少し離れたところには、友達らしい女子が数人。

みんなこちらを見ながら、緊張したような表情をしている。

後輩は両手で、小さな袋をぎゅっと握りしめていた。

「どうした?」

翔が優しく声をかける。

「あの……これ」

差し出されたチョコ。

「先輩に、渡したくて……」

「……俺に?」

「はい」

声が震えている。

翔は、その袋と後輩の顔を交互に見る。

何となく、言いたいことは分かった。

「……ごめん」

翔が先に口を開く。

「気持ちは嬉しいんだけど、俺――」

「彼女がいるのは、知ってます」

翔が言葉を止めた。

後輩は、チョコを握り直す。

「知ってるけど……それでも、好きです」

その言葉を口にした瞬間、顔が真っ赤になる。

「迷惑なのも分かってます」

「そんな……」

「でも、今日じゃないと渡せないと思って……」

後ろで見守っている友達も、心配そうにこちらを見ている。

「ずっと……好きでした」

小さな声。

でも、その気持ちはまっすぐ翔に届いた。

翔は少しだけ息を吐く。

「……ごめん。俺には瑠夏がいるから」

はっきりと伝える。

後輩の目が、一瞬だけ寂しそうに揺れた。

それでも、差し出した手は引っ込めない。

「……それでも」

「え?」

「これだけ……受け取ってください」

翔が困ったように首を振る。

「いや、でも……」

「お願いします」

後輩は思い切ったように一歩近づくと、翔の手にチョコを押し込んだ。

「あ……」

翔は思わず受け取る。

後輩は、真っ赤な顔のまま俯いた。

翔は手の中のチョコを見つめてから、優しく言った。

「……ありがとう」

後輩が顔を上げる。

「気持ちは、ちゃんと受け取ったから」

後輩は小さく頷いた。

「……はい」

そして深く頭を下げると、友達のもとへ戻っていった。

翔は、その背中を見送る。

手の中に残った、小さなチョコレート。

断った。

気持ちを受け入れたわけじゃない。

でも――

あの勇気を、無下にはしたくなかった。

なぜなら。

翔も同じだったから。

好きなのに、どうにもできない。

好きな人には、恋人がいる。

それでも、諦められない。

「……俺も、こんなだったのかな」

小さく呟く。

あの頃の自分を思い出していた。

* * *

翌日。

風邪もよくなり、瑠夏が学校へ戻ってきた。

「翔!」

「瑠夏!」

久しぶりに顔を合わせる。

「もう大丈夫?」

「うん」

「よかった」

翔が嬉しそうに笑う。

少し話していると、翔がふと思い出したように言った。

「そういえば、昨日さ」

「ん?」

「後輩にチョコもらった」

「……え?」

瑠夏の動きが止まる。

「チョコ?」

「うん」

翔はすぐに続ける。

「ちゃんと断ったから」

「……うん」

「でも、どうしてもって渡されてさ」

「……そうなんだ」

瑠夏は小さく頷いた。

「その子……翔のこと、好きだったんだね」

「うん」

「そっか……」

翔が瑠夏の顔を見る。

「……嫌だった?」

瑠夏は少し考えてから、首を横に振った。

「ううん」

「本当に?」

「……ちょっとだけ、びっくりした」

正直に答えると、翔が少し嬉しそうに笑った。

「俺、瑠夏に隠したくなかったから」

「……うん」

「ちゃんと話しておきたかった」

その言葉が嬉しかった。

翔は少しだけ遠くを見る。

「俺さ、瑠夏が拓実先輩と付き合ってたとき、ずっと好きだったじゃん」

「……うん」

「だから、あの子の気持ち……ちょっと分かるんだよ」

瑠夏は黙って翔を見る。

「好きなのに、どうにもできないって……結構きついから」

胸の奥が、きゅっと締まった。

あの頃の翔も、きっとこんな気持ちだったんだ。

「だから、ちゃんとありがとうって言った」

「……うん」

「でも、気持ちはちゃんと断った」

瑠夏は少し考えてから、口を開く。

「……その子、すごいね」

「ん?」

「翔に彼女がいるって知ってても、好きって言えたんでしょ?」

「うん」

「……私には、できなかったな」

翔の表情が止まった。

「……瑠夏」

「中学生の頃、私も翔が好きだった。でも、翔には彼女がいると思ってたから……言えなかった」

「……」

「だから、その子の勇気、すごいと思う」

翔はしばらく瑠夏を見つめた。

そして、静かに聞く。

「……じゃあ、今は?」

「え?」

「今は?」

瑠夏は少し照れながら、翔を見る。

「……今は、翔の彼女です」

その瞬間。

翔の顔が、ぱっと明るくなった。

「……瑠夏」

「なに?」

翔が瑠夏の手を取る。

「えっ……」

そのまま、教室の端へ。

カーテンの影になる場所まで、少しだけ強引に連れていかれる。

周りには、まだ生徒がいる。

「翔……?」

翔は答えなかった。

ただ、嬉しそうに瑠夏を見る。

そして――

唇が、そっと重なった。

「……っ」

一瞬だった。

でも、心臓が大きく跳ねる。

翔が離れる。

「……ごめん」

「もう……」

「我慢できなかった」

「こんなところで……」

「だって」

翔が笑う。

「瑠夏が俺の彼女だって言ったから」

瑠夏の顔が熱くなる。

翔は、そんな瑠夏を見て嬉しそうに笑った。

「それに――」

「?」

「俺が欲しかったのは、瑠夏からのチョコだから」

瑠夏は鞄から、小さな包みを取り出した。

「……はい」

翔の目が輝く。

「これ……」

「バレンタイン」

「ありがとう」

翔はチョコを大切そうに受け取った。

「俺、これ大事にする」

「ちゃんと食べてね?」

「もちろん」

翔は嬉しそうに笑って、自分のクラスへ戻っていった。

瑠夏はその背中を見送る。

そして――

さっき翔にキスされた唇に、指先でそっと触れた。

少し照れたように笑って、

「……風邪、うつっちゃったかも」