君のとなり 〜約束の168〜

新体操の練習中。

私は、新しい技に挑戦していた。

ボールを転がして、その動きに合わせて身体を回転させる。

何度か練習して、少しずつ形になってきた。

「もう一回……」

そう思って、ボールを転がした。

右足を踏み出した、その瞬間――

ぐらっ。

「――きゃっ!」

右足が、転がしつたボールに乗ってしまった。

身体のバランスが崩れる。

次の瞬間――

ごんっ。

後頭部に、鈍い衝撃が走った。

「……っ」

一瞬、息が止まった。

「瑠夏!」

「大丈夫!?」

部員たちが駆け寄ってくる。

私は床に横になったまま、ゆっくり目を開けた。

「……うん」

意識はある。

でも、頭の中が少しぼんやりしていた。

「どこ打ったの?」

「……頭」

後頭部に手をやった。

指先に触れたものを見て、私は目を瞬かせる。

「……血?」

「えっ、血が出てる!」

髪を確認すると、頭につけていたピンが転倒した衝撃で当たったらしく、その部分から血が滲んでいた。

「ピンが当たったんだ」

「タオル持ってきて!」

すぐに部員がタオルを持ってくる。

「瑠夏、これ当てるね」

「うん……」

タオルを傷口にそっと当てる。

「少し押さえておこう」

「……ありがとう」

「足は?」

「右足も……ちょっと痛い」

「捻ったのかな」

私はまだ床に横になったまま。

頭は少しぼんやりする。

でも、みんながそばにいてくれるから大丈夫。

そう思っていた。

そのとき――。

「瑠夏!」

体育館の入口から、翔の声が響いた。

誰かが伝えたのだろう。

息を切らして、翔が駆け込んでくる。

そして――

床に横たわっている私。

周りを囲む部員たち。

そして、頭に当てられたタオル。

そのタオルに滲んだ赤い色。

それを見た瞬間。

翔の顔から、血の気が引いた。

「……瑠夏?」

翔が一気に駆け寄ってくる。

「転んじゃって……」

「……頭、打ったの?」

「うん……。ピンが当たったみたい」

翔の視線が、タオルへ向く。

「血、出てる……」

「大丈夫だよ」

「大丈夫じゃないだろ!」

翔は私の顔をじっと見つめる。

「気持ち悪くない?」

「大丈夫」

「頭、痛い?」

「ちょっとだけ」

翔は一度、深く息を吐いた。

そして、

「保健室行こう」

「翔、自分で歩けるよ」

「ダメ」

「でも……」

「俺が連れてく」

次の瞬間。

身体がふわっと浮いた。

「きゃっ……!」

翔に抱き上げられていた。

「翔……!」

「大丈夫。俺が連れてくから」

「みんな見てる……」

「今は気にしなくていい」

翔の腕は、私をしっかりと支えていた。

いつものグイグイした翔とは少し違う。

必死だった。

私を抱く腕から、その気持ちが伝わってくる。

「落とさないから」

その一言に、私は何も言えなくなった。

* * *

病院で診察を受ける。

頭の傷は、ピンが当たったことによる小さな切り傷。

処置をしてもらうと、出血もすぐに落ち着いた。

そして、頭部の検査も受ける。

しばらくして、先生が言った。

「軽い脳震盪ですね」

「……脳震盪」

翔が小さく呟いた。

「大きな異常はありません。ただ、今日は無理をせず、安静にしてください」

「はい」

翔が答える。

右足首も、軽い捻挫。

幸い、大きな問題はなかった。

診察室を出たところで、翔がようやく大きく息を吐いた。

「……よかった」

その声は、少しだけ震えていた。

* * *

後日。

二人きりになったとき。

翔が、ぽつりと言った。

「……本当に怖かった」

「翔……」

「瑠夏が倒れてるの見た瞬間、頭真っ白になった」

「ごめんね」

翔は少しだけ黙ってから、私の手を握った。

「瑠夏が謝ることじゃない」

「でも……」

翔は、少し視線を落とした。

「俺さ……」

その声が、いつもより低かった。

「怪我の怖さは、俺が一番わかってるから」

「……うん」

「アキレス腱を切ったとき、何もできなくなっただろ」

「うん……」

「練習もできない。走れない。大会にも出られない」

翔の指が、私の手を包み込む。

「身体が動かないって、あんなに怖いんだって……あのとき初めて知った」

私は何も言わず、翔の話を聞いていた。

「だから、瑠夏が倒れてるの見た瞬間……あのときの怖さが、全部戻ってきた」

「翔……」

「瑠夏まで、あんな思いするの嫌なんだよ」

握られた手に、少しだけ力がこもる。

「だから……無理しないで」

「……うん」

「俺、瑠夏にはずっと新体操続けてほしいから」

胸の奥が、じんと熱くなった。

「……ありがとう」

翔は少し照れたように笑った。

そして――

「しばらく新しい技は禁止」

「えー!」

思わず声が出る。

「翔が決めることじゃないでしょ」

「俺が決める」

「なんでよ」

翔は当たり前みたいな顔をした。

「彼氏だからいいの」

「……何それ」

思わず笑ってしまう。

すると翔も笑った。

「俺が心配するから」

「……しょうがないなぁ」

「約束」

「うん」

「絶対、無理しない」

「はいはい」

「返事は一回」

「……はい」

翔が満足そうに笑った。

繋いだ手は、そのまま。

その温かさに包まれながら、私は思った。

私が痛いと、翔も苦しくなる。

私が怪我をすると、誰よりも怖がってくれる。

そんな翔が――

今は、私の彼氏なんだ。

* * *

翌日。

少し足をかばいながら廊下を歩いていると、向こうから拓実先輩が歩いてきた。

目が合う。

「瑠夏」

「拓実先輩」

拓実先輩の視線が、私の足元に落ちた。

「怪我したんだって?」

「はい。軽い捻挫です」

「大丈夫なのか?」

「もう大丈夫です」

そう答えながら、私は少しだけ足をかばう。

「無理するなよ」

「はい」

拓実先輩は、少し笑った。

「受験終わったら、大会に応援に行くよ」

「えっ?」

思わず顔を上げる。

「本当ですか?」

「ああ」

「じゃあ、頑張って新技磨きますね!」

その瞬間。

隣にいた翔が、すぐに反応した。

「おい!」

「え?」

「無理するなって言っただろ」

「だって、拓実先輩が大会見に来てくれるって……」

「だからって、新技頑張る必要ないだろ」

「でも……」

翔が呆れたように私を見る。

「瑠夏、怪我したばっかりなんだから」

「……はい」

そのやり取りを見ていた拓実先輩が、ふっと笑う。

そして翔を見る。

ほんの一瞬。

言葉にはしない。

でも、その目は――

瑠夏を頼むぞ。

そう言っているようだった。

翔も、その視線を受け止める。

そして小さく頷いた。

私は二人を見比べる。

「……どうしたの?」

「なんでもない」

翔が私の手を取った。

「ほら。ゆっくり歩く」

「もう、翔ってば……」

繋がれた手が温かい。

私はその手を握り返した。

少しだけ足をかばいながら。

でも、今は不思議と心強かった。

私の隣には――

私を心配してくれる彼氏がいる。

そのことが、何より嬉しかった。