君のとなり 〜約束の168〜

11月。

文化祭まで、あと一週間。

廊下には、色とりどりの画用紙や模造紙が並び、教室のあちこちから、準備に追われる声が聞こえてくる。

「そこ、もう少し右!」

「えー、これどこに貼るの?」

「実行委員、こっち手伝ってー!」

そんな声を聞きながら、私は掲示物を抱えて廊下を歩いていた。

文化祭の準備。

去年も、こうして毎日のように校内を走り回っていた。

高一の夏。

7月。

文化祭実行委員になった私は、そこで初めて――拓実先輩と出会った。

あの日から、私の世界は変わった。

先輩と一緒に準備をして。

たくさん話して。

笑って。

時には、ドキドキして。

そして、後夜祭の日。

先輩から告白された。

思い出せば、胸の奥が少しだけきゅっとなる。

「……懐かしいな」

思わず、ひとりで呟いた。

今年も私は、文化祭実行委員になった。

やっぱり、こういうことが好きなんだと思う。

みんなで一つのものを作っていく時間。

準備で忙しくて、教室が散らかっていて。

何度も失敗して、やり直して。

それでも、本番の日に完成したものを見ると、全部が楽しい思い出になる。

私は抱えていた掲示物を壁際に置いた。

少し高いところに貼らなければならない。

近くにあった椅子を引き寄せて、その上に立つ。

「よいしょ……」

掲示物の端を持ち上げる。

去年も――

こうしていた。

同じ廊下。

同じような椅子。

同じ文化祭の準備。

ただ、一つだけ違う。

去年、私の隣にいた人は――

「……拓実先輩」

小さく名前がこぼれた。

胸の奥に、去年の記憶が蘇る。

あの頃の私は、先輩のことが好きだった。

先輩と一緒にいるだけで嬉しくて。

先輩に名前を呼ばれるだけで、胸がいっぱいになって。

何気ない仕草ひとつに、心を奪われていた。

そして――

あの日。

この場所で。

「危ないよ」

そう言って、先輩が私の代わりに掲示物を貼ってくれた。

「……」

思い出して、少しだけ笑った。

懐かしい。

そんなことを考えながら、もう一度掲示物を壁に合わせる。

そのときだった。

「――瑠夏?」

背後から聞こえた声に、心臓が跳ねた。

ゆっくり振り返る。

「……拓実先輩」

そこに立っていたのは、拓実先輩だった。

制服姿。

去年と同じ。

でも、去年とは違う。

先輩はもう三年生。

受験もあって、文化祭の実行委員ではない。

それでも、たまたま通りかかったらしい。

先輩は私が椅子の上に立っているのを見ると、少しだけ眉を寄せた。

「まだそんなことしてるの?」

「え?」

「危ないって」

そう言いながら、先輩は私のところまで歩いてくる。

「俺がやるよ」

「え、でも……」

言い終わる前に、先輩の手が伸びてきた。

私の手から、掲示物がすっと奪われる。

「ほら。降りて」

「……はい」

去年と同じだった。

あのときも。

先輩はこうして、私の代わりにやってくれた。

椅子から降りると、私は少し離れたところから先輩を見上げた。

背の高い先輩は、私が貼ろうとしていた場所に掲示物を合わせる。

「ここでいい?」

「はい。……そこです」

「じゃあ、押さえてて」

「はい」

二人で掲示物を貼る。

ほんの数分。

それだけなのに、不思議なほど去年の景色と重なった。

「……去年も、こうしてましたよね」

私が言うと、先輩の手が一瞬だけ止まった。

「覚えてた?」

「もちろんです」

先輩は小さく笑った。

「そっか」

それ以上は何も言わない。

でも、その笑顔を見ていると、去年のことが次々と思い出されていく。

「去年は、先輩も実行委員でしたよね」

「うん」

「毎日、大変だったなぁ」

「瑠夏、最初の頃、段ボール抱えて転びそうになってたよな」

「えっ……覚えてるんですか?」

「覚えてるよ」

先輩が笑う。

「俺、結構心配してたから」

「……恥ずかしいです」

「でも、頑張ってた」

その言葉に、胸が少しだけ温かくなる。

去年の先輩も、こうして私を見ていてくれた。

そして、私も先輩を見ていた。

好きだった。

大好きだった。

今でも、その気持ちをなかったことにはできない。

でも――

今、私の隣には翔がいる。

体育祭の日。

翔が私に想いを伝えてくれた。

そして私は、その気持ちを受け取った。

今は、翔と恋人になった。

それは、ちゃんと私の中にある。

だから私は、目の前の先輩に笑った。

「ありがとうございます、拓実先輩」

その瞬間。

拓実の胸の奥が、ほんの少しだけ痛んだ。

――拓実先輩。

その呼び方。

ずっと聞いてきたはずなのに。

以前は、ただ嬉しかった。

けれど今は、その二文字が、自分と瑠夏の間に引かれた線のように感じる。

先輩と後輩。

それ以上でも、それ以下でもない。

拓実は一瞬だけ視線を落とした。

けれど、すぐにいつもの笑顔に戻る。

「どういたしまして」

そう言って、掲示物の端をもう一度確認する。

「これで大丈夫だな」

「はい」

「じゃあ、俺行くわ」

「はい。受験、大変ですよね」

「まあね」

先輩は苦笑する。

それから少しだけ私を見る。

「瑠夏」

「はい?」

「今年の文化祭も、楽しんで」

「……はい」

「去年より、もっと」

そう言って、先輩は笑った。

優しい笑顔だった。

去年、私が好きだった笑顔。

今も変わらない。

「ありがとうございます」

「じゃあな」

「はい。拓実先輩も、頑張ってください」

「うん」

先輩は手を上げて、そのまま廊下の向こうへ歩いていった。

私はその背中を見送る。

去年なら。

きっと、先輩の背中が見えなくなるまで、ずっと見つめていた。

でも今は――

「……よし」

小さく息を吐いて、私は掲示物を見上げた。

今年の文化祭。

去年とは違う。

同じ場所。

同じ季節。

同じ文化祭。

だけど――

私の隣にいる人は、もう違う。

そのことが、少しだけ不思議で。

そして――

少しだけ、嬉しかった。