君のとなり 〜約束の168〜

 二学期が始まって、数日。

 夏休みが終わったばかりの校舎には、まだどこか夏の名残が残っていた。

 けれど、瑠夏を取り巻く空気は、夏休み前とは少し違っていた。

「ねえ、聞いた?」

「何を?」

「拓実先輩と瑠夏、別れたんだって」

「えっ……本当?」

「うん。結構前に別れたらしいよ」

「なんで?」

「そこまでは知らないけど……」

 廊下の向こうから、そんな声が聞こえてくる。

 瑠夏は聞こえないふりをして、友達と一緒に教室へ向かった。

「瑠夏……」

「ん?」

「本当に、別れたの?」

 友達が少し気遣うように尋ねる。

 瑠夏は一瞬だけ目を伏せた。

「……うん」

「そっか……」

「大丈夫だよ」

 そう言って笑う。

 笑えている。

 だから、大丈夫。

 ――そう思おうとした。

 けれど。

 胸の奥には、まだ夏の花火大会の夜が残っている。

 拓実の声。

 優しい手。

 最後に抱きしめてもらった温もり。

 それを思い出すだけで、胸が締めつけられた。

 そんな瑠夏の周りでは、別の変化も起きていた。

「瑠夏ってさ……」

「ん?」

「前より可愛くなったよね」

「え?」

「なんか、雰囲気変わった」

 別の友達も頷く。

「分かる。付き合い始めた頃より、今のほうが女の子っぽい」

「そうかな……」

「そうだよ。なんか、柔らかくなったっていうか」

 瑠夏は照れたように笑った。

 もともと可愛い子だった。

 けれど、高校生になって少しずつ大人っぽくなったこと。

 そして、拓実と恋をしていたこと。

 好きな人と一緒にいる時間が増えるにつれて、表情も自然と柔らかくなっていった。

 笑うことも増えた。

 誰かを好きになることで、女の子らしさも少しずつ増していった。

 そんな変化に、男子たちも気づいていた。

 けれど――。

 以前は誰も簡単に近づかなかった。

 理由は一つ。

 ――拓実の彼女だったから。

「瑠夏って可愛いよな」

「うん。でも拓実先輩の彼女じゃん」

「……だよな」

 そんな会話が、今まで何度も交わされていた。

 好きだと思っても。

 告白したいと思っても。

「拓実先輩の彼女だしな……」

 そうやって、誰も踏み込まなかった。

 だから、瑠夏がモテていなかったわけじゃない。

 ただ、拓実という存在が大きすぎて、それが表に出なかっただけだった。

 そして今。

 その壁がなくなった。

「瑠夏、また呼び出されたんでしょ?」

「……うん」

「今日で何人目よ?」

「知らないよ……」

 友達が呆れたように笑う。

「もう、モテ期じゃん」

「そんなのいらない……」

 瑠夏は困ったように笑った。

 机の中には、放課後の呼び出しを知らせるメモ。

 休み時間には、友達から男子に話しかけられたという話を聞かされる。

 そして放課後。

 また一人の男子から告白された。

「前から好きでした」

 瑠夏は黙って聞いていた。

「もしよかったら、付き合ってください」

 少しだけ俯く。

「……ごめんなさい」

「やっぱり……まだ拓実先輩のこと?」

 その言葉に、瑠夏の胸が小さく痛んだ。

「……今は、誰かと付き合うこと、考えられないの」

「そっか……」

「ごめんね」

「ううん。こっちこそ、急にごめん」

 男子が去っていく。

 瑠夏は一人、その場に残った。

 ――拓実。

 その名前が、また胸の中に浮かぶ。

 同じ頃。

 拓実のところにも、女子からの告白が続いていた。

「拓実先輩……少し時間いいですか?」

「ん?」

「私……先輩のことが好きです」

 拓実は少し困ったように笑った。

「……ごめん」

「やっぱり……まだ、瑠夏ちゃんのことが好きなんですか?」

 一瞬、拓実の表情が止まる。

「……今は付き合えない」

 それだけだった。

「ごめん」

 女子が去っていく。

 拓実は小さく息を吐いた。

 受験生だというのに、告白される。

 別れた途端、今まで以上に声をかけられるようになった。

 けれど、誰かと付き合う気にはなれなかった。

 瑠夏を取り戻そうとしているわけじゃない。

 追いかけるつもりもない。

 ただ――。

 まだ好きだった。

 簡単に気持ちを切り替えられるほど、軽い恋じゃなかった。

 拓実は一人で廊下を歩き、校舎の端へ向かう。

 そして――。

 見覚えのある廊下に差しかかった。

 足が止まる。

 そこは、文化祭実行委員をしていた頃。

 瑠夏を抱き止めた、あの場所だった。

 あの日のことが、鮮明に蘇る。

 腕の中に飛び込んできた瑠夏。

 驚いた顔。

 恥ずかしそうな笑顔。

 あのとき感じた温もり。

 拓実は、静かに目を細めた。

 そして――。

「……瑠夏?」

 少し先に、瑠夏がいた。

 一人だった。

 そして、泣いていた。

 拓実の胸が、大きく揺れる。

「……っ」

 今すぐ駆け寄りたい。

 抱きしめたい。

 あのときみたいに、腕の中に包み込みたい。

 拓実は、無意識に一歩踏み出した。

「瑠夏……」

 手が伸びる。

 けれど、その手は途中で止まった。

 ――もう、俺は瑠夏の彼氏じゃない。

 ここで抱きしめたら。

 また瑠夏を迷わせるかもしれない。

 自分から別れを選んだくせに、今さら腕の中へ戻すことなんてできない。

 拓実は、伸ばしかけた手をゆっくり下ろした。

 強く拳を握る。

 目の前で泣いている瑠夏を見ながら、何もできない。

 それが、苦しかった。

 それでも――。

 好きだった。

 今も。

 変わらない。

 拓実は一度だけ瑠夏を見つめると、静かにその場を離れた。

 最後まで、声はかけなかった。

 瑠夏は、拓実がそこにいたことを知らない。

 しばらくして、涙を拭う。

「……帰ろう」

 小さく呟いて、歩き出した。

 校門を出たところで――。

「瑠夏」

 声が聞こえた。

「……翔くん」

「今、帰り?」

「うん」

 二人で歩き始める。

 しばらく無言だった。

 やがて翔が、何気なく口を開く。

「……また告白?」

「え?」

「最近、多いじゃん」

「……うん」

 瑠夏は少し困ったように笑った。

「今日も」

 翔は黙った。

 少しして、ぽつりと聞く。

「……誰かと付き合うの?」

 瑠夏は翔を見る。

「まだ分かんないよ」

「……そっか」

 翔の表情が、ほんの少し曇った。

「翔くん?」

「……別に」

「どうしたの?」

「何でもない」

 翔は前を向いた。

 瑠夏も、その横顔を見つめる。

 不思議だった。

 さっきまで胸が苦しくて、涙が止まらなかったのに。

 翔くんと歩いていると、少しだけ落ち着く。

 何かを話さなくてもいい。

 無理に笑わなくてもいい。

 ただ隣にいてくれる。

 そのことが、今の瑠夏には少しだけ安心できた。

 でも――。

 胸の奥には、まだ拓実がいる。

 帰れば、きっとまた思い出す。

 まだ会いたい。

 まだ大好きだった。

 まだ、忘れられない。

 瑠夏は静かに前を向いた。

 拓実との恋は、終わった。

 それでも、その恋が消えたわけじゃない。

 そしてその隣で――。

 まだ小さな存在だった翔への気持ちが、静かに息をし始めていた。