二学期が始まって、数日。
夏休みが終わったばかりの校舎には、まだどこか夏の名残が残っていた。
けれど、瑠夏を取り巻く空気は、夏休み前とは少し違っていた。
「ねえ、聞いた?」
「何を?」
「拓実先輩と瑠夏、別れたんだって」
「えっ……本当?」
「うん。結構前に別れたらしいよ」
「なんで?」
「そこまでは知らないけど……」
廊下の向こうから、そんな声が聞こえてくる。
瑠夏は聞こえないふりをして、友達と一緒に教室へ向かった。
「瑠夏……」
「ん?」
「本当に、別れたの?」
友達が少し気遣うように尋ねる。
瑠夏は一瞬だけ目を伏せた。
「……うん」
「そっか……」
「大丈夫だよ」
そう言って笑う。
笑えている。
だから、大丈夫。
――そう思おうとした。
けれど。
胸の奥には、まだ夏の花火大会の夜が残っている。
拓実の声。
優しい手。
最後に抱きしめてもらった温もり。
それを思い出すだけで、胸が締めつけられた。
そんな瑠夏の周りでは、別の変化も起きていた。
「瑠夏ってさ……」
「ん?」
「前より可愛くなったよね」
「え?」
「なんか、雰囲気変わった」
別の友達も頷く。
「分かる。付き合い始めた頃より、今のほうが女の子っぽい」
「そうかな……」
「そうだよ。なんか、柔らかくなったっていうか」
瑠夏は照れたように笑った。
もともと可愛い子だった。
けれど、高校生になって少しずつ大人っぽくなったこと。
そして、拓実と恋をしていたこと。
好きな人と一緒にいる時間が増えるにつれて、表情も自然と柔らかくなっていった。
笑うことも増えた。
誰かを好きになることで、女の子らしさも少しずつ増していった。
そんな変化に、男子たちも気づいていた。
けれど――。
以前は誰も簡単に近づかなかった。
理由は一つ。
――拓実の彼女だったから。
「瑠夏って可愛いよな」
「うん。でも拓実先輩の彼女じゃん」
「……だよな」
そんな会話が、今まで何度も交わされていた。
好きだと思っても。
告白したいと思っても。
「拓実先輩の彼女だしな……」
そうやって、誰も踏み込まなかった。
だから、瑠夏がモテていなかったわけじゃない。
ただ、拓実という存在が大きすぎて、それが表に出なかっただけだった。
そして今。
その壁がなくなった。
「瑠夏、また呼び出されたんでしょ?」
「……うん」
「今日で何人目よ?」
「知らないよ……」
友達が呆れたように笑う。
「もう、モテ期じゃん」
「そんなのいらない……」
瑠夏は困ったように笑った。
机の中には、放課後の呼び出しを知らせるメモ。
休み時間には、友達から男子に話しかけられたという話を聞かされる。
そして放課後。
また一人の男子から告白された。
「前から好きでした」
瑠夏は黙って聞いていた。
「もしよかったら、付き合ってください」
少しだけ俯く。
「……ごめんなさい」
「やっぱり……まだ拓実先輩のこと?」
その言葉に、瑠夏の胸が小さく痛んだ。
「……今は、誰かと付き合うこと、考えられないの」
「そっか……」
「ごめんね」
「ううん。こっちこそ、急にごめん」
男子が去っていく。
瑠夏は一人、その場に残った。
――拓実。
その名前が、また胸の中に浮かぶ。
同じ頃。
拓実のところにも、女子からの告白が続いていた。
「拓実先輩……少し時間いいですか?」
「ん?」
「私……先輩のことが好きです」
拓実は少し困ったように笑った。
「……ごめん」
「やっぱり……まだ、瑠夏ちゃんのことが好きなんですか?」
一瞬、拓実の表情が止まる。
「……今は付き合えない」
それだけだった。
「ごめん」
女子が去っていく。
拓実は小さく息を吐いた。
受験生だというのに、告白される。
別れた途端、今まで以上に声をかけられるようになった。
けれど、誰かと付き合う気にはなれなかった。
瑠夏を取り戻そうとしているわけじゃない。
追いかけるつもりもない。
ただ――。
まだ好きだった。
簡単に気持ちを切り替えられるほど、軽い恋じゃなかった。
拓実は一人で廊下を歩き、校舎の端へ向かう。
そして――。
見覚えのある廊下に差しかかった。
足が止まる。
そこは、文化祭実行委員をしていた頃。
瑠夏を抱き止めた、あの場所だった。
あの日のことが、鮮明に蘇る。
腕の中に飛び込んできた瑠夏。
驚いた顔。
恥ずかしそうな笑顔。
あのとき感じた温もり。
拓実は、静かに目を細めた。
そして――。
「……瑠夏?」
少し先に、瑠夏がいた。
一人だった。
そして、泣いていた。
拓実の胸が、大きく揺れる。
「……っ」
今すぐ駆け寄りたい。
抱きしめたい。
あのときみたいに、腕の中に包み込みたい。
拓実は、無意識に一歩踏み出した。
「瑠夏……」
手が伸びる。
けれど、その手は途中で止まった。
――もう、俺は瑠夏の彼氏じゃない。
ここで抱きしめたら。
また瑠夏を迷わせるかもしれない。
自分から別れを選んだくせに、今さら腕の中へ戻すことなんてできない。
拓実は、伸ばしかけた手をゆっくり下ろした。
強く拳を握る。
目の前で泣いている瑠夏を見ながら、何もできない。
それが、苦しかった。
それでも――。
好きだった。
今も。
変わらない。
拓実は一度だけ瑠夏を見つめると、静かにその場を離れた。
最後まで、声はかけなかった。
瑠夏は、拓実がそこにいたことを知らない。
しばらくして、涙を拭う。
「……帰ろう」
小さく呟いて、歩き出した。
校門を出たところで――。
「瑠夏」
声が聞こえた。
「……翔くん」
「今、帰り?」
「うん」
二人で歩き始める。
しばらく無言だった。
やがて翔が、何気なく口を開く。
「……また告白?」
「え?」
「最近、多いじゃん」
「……うん」
瑠夏は少し困ったように笑った。
「今日も」
翔は黙った。
少しして、ぽつりと聞く。
「……誰かと付き合うの?」
瑠夏は翔を見る。
「まだ分かんないよ」
「……そっか」
翔の表情が、ほんの少し曇った。
「翔くん?」
「……別に」
「どうしたの?」
「何でもない」
翔は前を向いた。
瑠夏も、その横顔を見つめる。
不思議だった。
さっきまで胸が苦しくて、涙が止まらなかったのに。
翔くんと歩いていると、少しだけ落ち着く。
何かを話さなくてもいい。
無理に笑わなくてもいい。
ただ隣にいてくれる。
そのことが、今の瑠夏には少しだけ安心できた。
でも――。
胸の奥には、まだ拓実がいる。
帰れば、きっとまた思い出す。
まだ会いたい。
まだ大好きだった。
まだ、忘れられない。
瑠夏は静かに前を向いた。
拓実との恋は、終わった。
それでも、その恋が消えたわけじゃない。
そしてその隣で――。
まだ小さな存在だった翔への気持ちが、静かに息をし始めていた。
夏休みが終わったばかりの校舎には、まだどこか夏の名残が残っていた。
けれど、瑠夏を取り巻く空気は、夏休み前とは少し違っていた。
「ねえ、聞いた?」
「何を?」
「拓実先輩と瑠夏、別れたんだって」
「えっ……本当?」
「うん。結構前に別れたらしいよ」
「なんで?」
「そこまでは知らないけど……」
廊下の向こうから、そんな声が聞こえてくる。
瑠夏は聞こえないふりをして、友達と一緒に教室へ向かった。
「瑠夏……」
「ん?」
「本当に、別れたの?」
友達が少し気遣うように尋ねる。
瑠夏は一瞬だけ目を伏せた。
「……うん」
「そっか……」
「大丈夫だよ」
そう言って笑う。
笑えている。
だから、大丈夫。
――そう思おうとした。
けれど。
胸の奥には、まだ夏の花火大会の夜が残っている。
拓実の声。
優しい手。
最後に抱きしめてもらった温もり。
それを思い出すだけで、胸が締めつけられた。
そんな瑠夏の周りでは、別の変化も起きていた。
「瑠夏ってさ……」
「ん?」
「前より可愛くなったよね」
「え?」
「なんか、雰囲気変わった」
別の友達も頷く。
「分かる。付き合い始めた頃より、今のほうが女の子っぽい」
「そうかな……」
「そうだよ。なんか、柔らかくなったっていうか」
瑠夏は照れたように笑った。
もともと可愛い子だった。
けれど、高校生になって少しずつ大人っぽくなったこと。
そして、拓実と恋をしていたこと。
好きな人と一緒にいる時間が増えるにつれて、表情も自然と柔らかくなっていった。
笑うことも増えた。
誰かを好きになることで、女の子らしさも少しずつ増していった。
そんな変化に、男子たちも気づいていた。
けれど――。
以前は誰も簡単に近づかなかった。
理由は一つ。
――拓実の彼女だったから。
「瑠夏って可愛いよな」
「うん。でも拓実先輩の彼女じゃん」
「……だよな」
そんな会話が、今まで何度も交わされていた。
好きだと思っても。
告白したいと思っても。
「拓実先輩の彼女だしな……」
そうやって、誰も踏み込まなかった。
だから、瑠夏がモテていなかったわけじゃない。
ただ、拓実という存在が大きすぎて、それが表に出なかっただけだった。
そして今。
その壁がなくなった。
「瑠夏、また呼び出されたんでしょ?」
「……うん」
「今日で何人目よ?」
「知らないよ……」
友達が呆れたように笑う。
「もう、モテ期じゃん」
「そんなのいらない……」
瑠夏は困ったように笑った。
机の中には、放課後の呼び出しを知らせるメモ。
休み時間には、友達から男子に話しかけられたという話を聞かされる。
そして放課後。
また一人の男子から告白された。
「前から好きでした」
瑠夏は黙って聞いていた。
「もしよかったら、付き合ってください」
少しだけ俯く。
「……ごめんなさい」
「やっぱり……まだ拓実先輩のこと?」
その言葉に、瑠夏の胸が小さく痛んだ。
「……今は、誰かと付き合うこと、考えられないの」
「そっか……」
「ごめんね」
「ううん。こっちこそ、急にごめん」
男子が去っていく。
瑠夏は一人、その場に残った。
――拓実。
その名前が、また胸の中に浮かぶ。
同じ頃。
拓実のところにも、女子からの告白が続いていた。
「拓実先輩……少し時間いいですか?」
「ん?」
「私……先輩のことが好きです」
拓実は少し困ったように笑った。
「……ごめん」
「やっぱり……まだ、瑠夏ちゃんのことが好きなんですか?」
一瞬、拓実の表情が止まる。
「……今は付き合えない」
それだけだった。
「ごめん」
女子が去っていく。
拓実は小さく息を吐いた。
受験生だというのに、告白される。
別れた途端、今まで以上に声をかけられるようになった。
けれど、誰かと付き合う気にはなれなかった。
瑠夏を取り戻そうとしているわけじゃない。
追いかけるつもりもない。
ただ――。
まだ好きだった。
簡単に気持ちを切り替えられるほど、軽い恋じゃなかった。
拓実は一人で廊下を歩き、校舎の端へ向かう。
そして――。
見覚えのある廊下に差しかかった。
足が止まる。
そこは、文化祭実行委員をしていた頃。
瑠夏を抱き止めた、あの場所だった。
あの日のことが、鮮明に蘇る。
腕の中に飛び込んできた瑠夏。
驚いた顔。
恥ずかしそうな笑顔。
あのとき感じた温もり。
拓実は、静かに目を細めた。
そして――。
「……瑠夏?」
少し先に、瑠夏がいた。
一人だった。
そして、泣いていた。
拓実の胸が、大きく揺れる。
「……っ」
今すぐ駆け寄りたい。
抱きしめたい。
あのときみたいに、腕の中に包み込みたい。
拓実は、無意識に一歩踏み出した。
「瑠夏……」
手が伸びる。
けれど、その手は途中で止まった。
――もう、俺は瑠夏の彼氏じゃない。
ここで抱きしめたら。
また瑠夏を迷わせるかもしれない。
自分から別れを選んだくせに、今さら腕の中へ戻すことなんてできない。
拓実は、伸ばしかけた手をゆっくり下ろした。
強く拳を握る。
目の前で泣いている瑠夏を見ながら、何もできない。
それが、苦しかった。
それでも――。
好きだった。
今も。
変わらない。
拓実は一度だけ瑠夏を見つめると、静かにその場を離れた。
最後まで、声はかけなかった。
瑠夏は、拓実がそこにいたことを知らない。
しばらくして、涙を拭う。
「……帰ろう」
小さく呟いて、歩き出した。
校門を出たところで――。
「瑠夏」
声が聞こえた。
「……翔くん」
「今、帰り?」
「うん」
二人で歩き始める。
しばらく無言だった。
やがて翔が、何気なく口を開く。
「……また告白?」
「え?」
「最近、多いじゃん」
「……うん」
瑠夏は少し困ったように笑った。
「今日も」
翔は黙った。
少しして、ぽつりと聞く。
「……誰かと付き合うの?」
瑠夏は翔を見る。
「まだ分かんないよ」
「……そっか」
翔の表情が、ほんの少し曇った。
「翔くん?」
「……別に」
「どうしたの?」
「何でもない」
翔は前を向いた。
瑠夏も、その横顔を見つめる。
不思議だった。
さっきまで胸が苦しくて、涙が止まらなかったのに。
翔くんと歩いていると、少しだけ落ち着く。
何かを話さなくてもいい。
無理に笑わなくてもいい。
ただ隣にいてくれる。
そのことが、今の瑠夏には少しだけ安心できた。
でも――。
胸の奥には、まだ拓実がいる。
帰れば、きっとまた思い出す。
まだ会いたい。
まだ大好きだった。
まだ、忘れられない。
瑠夏は静かに前を向いた。
拓実との恋は、終わった。
それでも、その恋が消えたわけじゃない。
そしてその隣で――。
まだ小さな存在だった翔への気持ちが、静かに息をし始めていた。



