君のとなり 〜約束の168〜

夏の終わり。

 あの花火大会の日から、少しだけ時間が経っていた。

 瑠夏は、まだ自分の気持ちを整理できずにいた。

 拓実と別れた。

 それは間違いなく悲しかった。

 今でも、拓実のことを思い出す。

 最後に抱きしめてもらったことも。

 最後に交わしたキスも。

 思い出すたびに、胸が苦しくなる。

 拓実のことが嫌いになったわけじゃない。

 今でも大切な人だと思っている。

 だからこそ、自分の心にいる翔の存在を、どう受け止めればいいのか分からなかった。

 あの日から、瑠夏は笑っていなかった。

 学校でも。

 部活でも。

 誰かに話しかけられれば笑うことはあっても、それはいつもの瑠夏の笑顔ではなかった。

 そんな帰り道。

 学校の前を通りかかったとき、グラウンドから音が聞こえた。

 瑠夏は、足を止める。

 見ると、グラウンドでは翔が一人で練習していた。

 高跳びの練習。

 助走をつけ、踏み切る。

 身体が宙へ舞う。

 着地。

 中学の頃とは、まるで違う。

 身体も大きくなった。

 跳び方も、力強くなった。

 瑠夏は、しばらくその姿を見つめていた。

 すると、翔がこちらに気づいた。

「……瑠夏?」

「翔くん」

 翔が近づいてくる。

「どうした?」

「帰るところ」

「そっか」

 翔は何気なく瑠夏の周りを見る。

「……あれ?」

「ん?」

「拓実先輩は?」

 その名前を聞いた瞬間。

 瑠夏の胸が、きゅっと締めつけられた。

「……うん」

 瑠夏は少しだけ俯いた。

「どうしてるかな……」

 翔が不思議そうに瑠夏を見る。

 瑠夏は、小さく息を吐いた。

「私達……さよならしたの」

「……」

 翔の表情が止まる。

 何かを言おうとした。

 けれど、言葉が出てこない。

「……そっか」

 それだけだった。

 瑠夏は翔を見つめる。

 もっと何か言われると思っていた。

 でも、翔は何も言わなかった。

「じゃあ……頑張ってね」

「ああ」

 瑠夏は背を向ける。

 一歩。

 二歩。

「瑠夏!」

 呼び止められて、瑠夏が振り返った。

「……なに?」

 翔は少し考えてから、突然聞いた。

「身長、何センチ?」

「え?」

 瑠夏が目を丸くする。

「今……?」

「うん」

「えっと……165センチ」

 翔が目を見開く。

「でか!」

「ちょ、失礼な!」

「いや、だって……」

 翔は少し笑った。

「いつの間にそんな伸びたんだよ」

「知らないよ」

「中学のとき、もっと小さかっただろ」

「翔くんだって変わったじゃん」

「まあな」

 翔は少し照れくさそうに笑った。

 高校に入ってから、一気に伸びた。

 今では179センチ。

 中学時代の面影は残っているけれど、身体つきはすっかり変わっていた。

 そんな翔を見て、瑠夏が少し笑う。

 その笑顔を見て、翔も自然と笑った。

 そして――。

「……よし」

「え?」

 翔がグラウンドのほうを見る。

「見てろよ」

「何を?」

「……いいから」

 翔はそう言って、グラウンドへ戻っていった。

 瑠夏は少し迷ってから、その後を追った。

 翔の近くまで行く。

 翔はバーの高さを調整していた。

「これ……何センチ?」

 瑠夏が尋ねる。

「168」

 瑠夏は、バーを見上げた。

 自分の身長より、少しだけ高い。

 その高さを見た瞬間。

 遠い記憶が蘇った。

 中学生の頃。

 二人で走り高跳びをしていた。

 翔が跳んで。

 瑠夏も跳んで。

 いつも競争していた。

 そして、あの日。

 瑠夏は翔に言った。

『いつか、私の身長より高く跳んでね』

 あの約束。

 ずっと昔のことなのに。

 なぜか、今でも覚えている。

 翔がバーの前に立つ。

 瑠夏は、すぐ近くで見つめた。

 翔が助走を始める。

 一歩。

 二歩。

 三歩。

 踏み切り。

 翔の身体が宙へ浮く。

 ――成功。

 バーは落ちなかった。

 翔がマットに着地する。

 そして、瑠夏を見る。

「……守ったぞ、約束」

 その瞬間。

 瑠夏の胸が、いっぱいになった。

 あの日の約束が。

 今、目の前で叶った。

「……すごい」

 自然に笑みがこぼれる。

「翔くん、すごいよ」

 翔も少しだけ笑った。

「まだまだだけどな」

「ううん」

 瑠夏は首を横に振る。

「すごい」

 その笑顔は、花火大会の日から初めて見せた、心からの笑顔だった。

 翔は、その笑顔を見つめる。

 何も言わない。

 ただ、嬉しそうに笑った。

 瑠夏は、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じていた。

 拓実との思い出が消えたわけじゃない。

 悲しみがなくなったわけでもない。

 それでも――。

 翔くんが、あの日の約束を守ってくれたこと。

 そのことが、今の瑠夏の心に、小さな光を灯していた。

 夏の終わりの風が、二人の間を静かに吹き抜けていった。