君のとなり 〜約束の168〜

夏の夜。

 今日は、花火大会の日だった。

 待ち合わせ場所に着いた瑠夏は、少し緊張したように辺りを見回していた。

 淡い色の浴衣に身を包み、髪もいつもとは少し違う。

 やがて、人混みの向こうから拓実が歩いてくる。

 瑠夏を見つけた瞬間、拓実の足が止まった。

「……瑠夏」

「拓実」

 瑠夏が笑う。

「待った?」

「ううん。今来たところ」

 拓実は、しばらく瑠夏を見つめていた。

「……何?」

「いや……」

 少し照れくさそうに笑う。

「可愛すぎて、ちょっと困ってる」

「……もう」

 瑠夏の頬が赤くなる。

「拓実も似合ってるよ」

「ありがと」

 拓実は嬉しそうに笑って、自然に瑠夏の手を取った。

「じゃあ、行こうか」

「うん」

 二人は並んで歩き出した。

 通りにはたくさんの出店が並び、人で賑わっている。

 焼きそばの匂い。

 甘いりんご飴。

 射的にヨーヨー釣り。

 どこを見ても夏祭りの景色が広がっていた。

「拓実、あれやりたい」

「射的?」

「うん」

「瑠夏、こういうの得意そう」

「失礼だなぁ」

「じゃあ勝負する?」

「負けないよ」

 二人で笑いながら、射的の台に並ぶ。

 結果は――。

「……拓実、ずるい」

「何が?」

「最後の一個、私が狙ってたのに」

「早い者勝ち」

「もう」

 頬を膨らませる瑠夏を見て、拓実が笑う。

「じゃあ、これあげる」

「え?」

 拓実が取った景品を瑠夏に差し出す。

「はい」

「……ありがとう」

「どういたしまして」

 瑠夏が嬉しそうに笑う。

 その笑顔を見て、拓実も笑った。

 しばらく歩いていると、人の波が一気に押し寄せてきた。

「瑠夏」

「ん?」

 拓実が繋いでいた手を、少し強く握る。

「離れるなよ」

「大丈夫だよ」

「俺が離したくないの」

「……拓実」

 瑠夏の頬が赤くなる。

「何?」

「……ううん」

 二人はまた歩き出した。

 花火が始まる時間が近づき、人混みを少し離れた場所へ移動する。

 静かな場所に並んで座る。

 やがて、夜空に大きな花が咲いた。

 ドン――。

「綺麗……」

 瑠夏が空を見上げる。

「うん」

 拓実は花火ではなく、隣にいる瑠夏を見ていた。

 花火の光に照らされた横顔。

 いつもより少し大人びて見える。

「今日、楽しい?」

「うん。すごく」

「俺も」

 瑠夏が拓実を見る。

「また来ようね」

「……うん」

「来年も」

 拓実は少しだけ間を置いて、笑った。

「来年も」

 その言葉が、後からこんなにも胸を締めつけることを、二人はまだ知らなかった。

 拓実が、そっと瑠夏の手を握る。

 瑠夏も握り返した。

「瑠夏」

「ん?」

 拓実がゆっくり顔を近づける。

 瑠夏も静かに目を閉じた。

 あと少し。

 唇が触れる――

 その瞬間。

 瑠夏の頭に、翔の顔が浮かんだ。

 胸が苦しくなる。

 瑠夏は、俯いた。

「……ごめんなさい」

 拓実の動きが止まった。

「……瑠夏?」

 瑠夏は顔を上げられない。

「どうした?」

「……」

 拓実は、しばらく瑠夏を見つめていた。

 そして、静かに尋ねる。

「……俺じゃないやつがいるの?」

「え?」

「瑠夏の中に」

「……そんなこと……」

 否定しようとした。

 けれど、言葉が続かなかった。

 拓実は、その沈黙を見つめる。

「いる……よね?」

 瑠夏の目から、涙がこぼれた。

「……」

「瑠夏」

「……翔」

 その名前を聞いた瞬間。

 拓実は目を伏せた。

 やっぱり――そうだった。

 あの大会の日。

 瑠夏が翔を見つめていた、あの表情。

 ずっと胸の中に引っかかっていたものが、今、はっきりと繋がった。

「……そっか」

 拓実は、少しだけ笑った。

「やっぱり、翔なんだな」

「……ごめん」

「……うん」

 拓実はすぐには顔を上げられなかった。

「もう……言わなくていいよ」

「……」

「瑠夏が謝るたびに、俺まで苦しくなるから」

 瑠夏の涙が、またこぼれた。

 拓実はしばらく夜空を見上げた。

「俺さ……あの大会の日から、なんとなく考えてたんだ」

「……」

「瑠夏の心に、翔がいるんじゃないかって」

 瑠夏は何も言えない。

「でも、考えないようにしてた」

 拓実の声が少し震えた。

「俺、瑠夏のこと本当に好きだから」

「……拓実」

「だから、信じたかった」

 拓実は瑠夏を見る。

「でも……今の瑠夏を見たら、もう分かった」

 瑠夏の頬を、また涙が伝う。

「俺たち、別れよう」

「……嫌」

 瑠夏が首を横に振る。

「嫌だよ……」

「瑠夏」

「私、拓実のこと好きだよ……」

「うん」

「本当に好き……」

「分かってる」

 拓実の目にも、涙が滲んだ。

「俺も、瑠夏が好きだよ」

「じゃあ、どうして……」

「だからだよ」

 拓実は優しく言った。

「俺が好きだからこそ、あんな顔をしてる瑠夏を縛りたくない」

「……」

「俺の隣にいることを、義務にしたくないんだ」

 瑠夏は、もう何も言えなかった。

 ただ、涙を流し続ける。

 拓実は、そんな瑠夏を見つめた。

「……最後にひとつだけ、わがまま言っていい?」

 瑠夏が涙で濡れた目を上げる。

「……うん」

「最後に……ちゃんとキスしたい」

 瑠夏の唇が、わずかに震えた。

 そして、静かに頷く。

 拓実がそっと瑠夏の頬に触れる。

 今度は、瑠夏も目を閉じた。

 唇が重なる。

 ほんの一瞬。

 それでも、二人が恋人として過ごした時間が、全部詰まっているようなキスだった。

 離れたあと、拓実が小さく笑う。

「……やっぱり、好きだな」

「……拓実」

「だから、もう泣くなよ」

「無理だよ……」

「そっか」

 拓実も、涙を堪えるように笑った。

「じゃあ、今日は泣こう」

 その言葉を聞いた瞬間。

 瑠夏は拓実の胸に飛び込んだ。

「拓実……っ」

 声を上げて泣く。

 拓実は瑠夏を強く抱きしめた。

 何も言わずに。

 ただ、最後まで優しく。

「……ごめんね」

「……うん」

 拓実は瑠夏の髪をそっと撫でる。

「俺と付き合ってくれて、ありがとう」

「……っ」

「幸せだった」

「私も……」

「そっか」

 瑠夏は拓実の胸の中で泣き続けた。

 拓実も、瑠夏を抱きしめたまま目を閉じる。

 本当は、離したくなかった。

 このままずっと、抱きしめていたかった。

 けれど――

 もう、離さなければならない。

 夜空では、花火が次々と咲いていく。

 大きな音が響くたびに、二人の影が一瞬だけ明るくなる。

 さっきまで、

「また来年も来ようね」

そう言っていた二人。

 でも――

 来年、この場所に二人で来ることはない。

そして私は、この夜を忘れない。

 拓実と初めて唇を重ねたことも。

 そのキスが、最後になったことも。

 私のファーストキスは、別れのキスだった。

 その夜。

 二人が恋人として見る、最後の花火だった。