車椅子令嬢は夜、青い鳥になる ~氷の王子様に溺愛され、私を捨てた全てに復讐します~

 とと、とと。

 小さな爪が、机の上を叩く。

 机の上を、何度もくるくると走り回る。足が板に触れるたび、硬い木の響きが爪先から胸の奥まで小さく伝わってくる。

 身体は、驚くほど軽かった。少し力を入れただけで前へ飛び出し、止まるには爪で机の表面をきゅっとつかまなければならない。

 どれくらい、そうして走っていただろう。小さな胸が、速く上下し始めた。くちばしの間から、短い息が漏れる。

 私はその場で立ち止まった。

『……そんなに嬉しい?』

 クロノアが尋ねた。

「はい!」

 短く答えると、私はくちばしを開けて息を整えた。しばらくそうしてから、もう一度口を開く。

「それで、これは魔法じゃないなら、どういう仕組みで変わっているんですか?」
『簡単だよ。肉体は結局、位相(いそう)を入れる器でしかないの。今の君にはわたしの位相も混ざっているから、わたしの本来の姿に近い形へ変わることもできるってわけ』
「へえ……」

 私は片方の翼を広げてみた。

 透き通った空色の羽が、月明かりを受けてほのかに光る。元の姿の時、背中に生えていた小さく頼りない翼とはまるで違っていた。

 羽の一枚一枚は薄く、軽い。先を少し動かすだけで、空気の流れが羽軸(うじく)を伝って背中まで届いた。

 翼を、もう少しだけ広げた。

「じゃあ……飛ぶこともできるんでしょうか?」
『もちろん!』

 その答えを聞いた途端、椅子の端へ歩いていった。

 下を覗く。

 瞬間、爪が木の縁を強くつかんだ。

 床は、あまりにも遠かった。机の下の影が深い谷みたいに暗く開き、大きな口を広げてこちらを見上げている。

 私は翼を半分ほど広げ、すぐに畳んだ。羽の先が細かく震える。

『最初はぎこちないだろうから、わたしが少し手伝うよ。感覚をよく覚えて』

 クロノアの言葉が終わるより早く、身体が勝手に動いた。

 爪が椅子の端を離す。そして私は、そのまま宙へ身を投げた。

 いや、正確には、宙へ放り出された。

「きゃっ……!」

 床が一気に近づいてくる。

 両目を強く閉じた。けれど、ぶつかる衝撃は来なかった。

 翼が開く。羽ばたきとともに、空気が翼の下へ流れ込む。

 落ちていた身体が、軽く持ち上がった。胸の下を、誰かの手のひらが支えてくれている。そんな感覚があった。そして身体は風の流れに乗り、その上を滑り始めた。

 泳ぐ感覚に少し似ていた。

 冷たい夜気が、羽のあいだを抜けていく。翼の付け根から背中まで、風の筋がひとつずつ伝わってきた。

 おそるおそる、片目だけを開けた。

 夜空が広がっていた。

 息が止まる。

 通りに並ぶ霜灯(そうとう)が、ひとつ、またひとつと灯っていく。白い光は石畳を細くなぞり、赤い屋根の上に淡い霜を置いていった。

 遠くには王城の尖塔(せんとう)が見える。狼の紋章を掲げた一番高い塔が、夜空へ黒い線を引いている。その向こうで、星々が静かに瞬いていた。

 振り返ると、女子寮の窓にも温かな明かりがひとつずつ灯っていた。誰かが本を読み、誰かが髪を()かしている。

 私はくちばしを半分開けたまま、瞬きだけをした。

『どう? 自分で飛んでみる?』

 クロノアが尋ねる。

 私は少しだけ顔を下げ、地面を見た。

 庭木は玩具のように小さく、石畳を歩く学生たちは、動く点になっていた。車椅子に座っている時、いつも見上げていた世界が、今は足の下に広がっている。

 もう身体は震えていなかった。ただ、胸の奥が静かにふくらんでいく。

「はい……やってみます。でも、危なくなったら助けてください。必ず……!」
『うん。もちろん』

 その言葉が終わると、翼の先がぴくりと動いた。遅れて、背中、胸、爪先へと感覚が戻ってくる。

 水をかく時の動きを思い出す。私は肩から力を抜き、両翼をゆっくり前へ伸ばした。

 ぱさり。

 もう一度。さらにもう一度、夜空へ。

 頭上には、夜を抱く大きな紫の月が浮かんでいた。その隣には、小さな金色の月が寄り添っている。二つの月のまわりでは、数え切れない星様たちが輪を描き、手を取り合って舞っていた。

 空そのものが、ゆっくり回る舞踏会(ぶとうかい)になっていた。

 私は動いた。

 初めて。自分の身体で。


***


 どれくらい夜空を漂っていただろう。最初は軽かった翼の先が、しだいに痺れてきた。一度羽ばたくたび、肩の奥が引きつり、小さな胸は速く上下する。

 私は学院の方を振り返った。女子寮の窓が、遠くに見える。そちらへ向きを変えようとした時だった。

『やっぱり羽根の子だけあって、慣れるのが早いね。前世が鳥だったって言われても信じるよ』
「私たちの種族について、よくご存じなんですか?」
『そりゃあね。契約者の中にもいたから。ええと、誰だったかな……ア、アル……』
「アルナ……?」
『そう! アルナ! あの金髪のちびっ子娘!』

 私は小さく首をかしげた。

 幼い頃に読んだ童話の中に、その名はあった。神話の時代、人類の大英雄シグムンドとともに東の海の怪物リヴァイアサンを討ったとされる、冠翼族(かんよくぞく)の大魔法使い、アルナ。

 今から、およそ五千年前の人物。

 五千年。その数字を、頭の中でもう一度転がす。

「クロノア様。もしかして、お歳は――」

 言葉が終わる前に、私は口を閉じた。

 頭上の星明かりが、ふっと消えた。

 羽の先が震える。私はゆっくりと顔を上げた。

 巨大な白い影が、夜空を切り裂いていた。

 白い毛羽をまとった、北の雪原に棲む夜行性の猛禽(もうきん)――雪夜梟(スノウル)

 丸い顔のまわりには、銀の羽が月輪(げつりん)を描いていた。黒い瞳は深く、光を呑み込んでいる。広げた翼は小さな外套ほどもあり、足先には曲がった氷の刃じみた爪が光っていた。

 それが、私めがけて垂直に落ちてくる。

『危ない!』

 クロノアの声と同時に、私の身体が意志とは関係なく直角に折れる。

 雪夜梟の爪が、今の今まで私のいた場所を裂く。風の切れる音が、耳をかすめた。

「ひっ……!」

 かすれた声を漏らしながら、私は女子寮の方へ身体を向けようとした。

 だが、また身体が勝手に別の方向へ折れる。目の前に見えたのは、すぐそばの男子寮だった。

『君の部屋まで行ったら捕まる! 近くの窓に飛び込んで!』

 下を通り過ぎた雪夜梟が、首だけをもたげた。黒い目が、また私を捕らえる。

 翼を畳んだ白い影が、まっすぐこちらへ跳ね上がってくる。

 私は寮の屋根の端をかすめるように飛んだ。そのすぐ後ろで、奴の爪が(かわら)をひっかき、小さな火花が散る。

 身体が左へ折れた。寮の窓の並びに沿って、入れる隙間を探す。

 翼は必死に上下しているのに、息がじわじわと詰まっていく。羽の先は痺れて、感覚が薄れていた。

 不意に、男子寮の最上階、一番端の部屋から、かすかな光が漏れているのが見えた。窓が、ほんの少しだけ開いている。

『あそこ!』

 クロノアが叫ぶ。同時に、私はその隙間へ向かって身体を投げた。

 その直後、背後から冷たい風が覆いかぶさってきた。雪夜梟の爪が、右の翼をかすめる。

 翼が裂けた。

「――!」

 声は喉の奥で詰まった。

 身体が片側へ傾く。右の翼が言うことを聞かない。光の漏れる窓の隙間が、狂ったように揺れた。

 最後に残った力を、左の翼へ集めた。

 身体が床をかすめる低さで飛ぶ。そして、窓の隙間へ転がり込んだ。

 小さな身体が木の床に落ち、何度も転がる。壁にぶつかって、ようやく止まった。

「翼が……っ!」
『ああっ! 痛い痛い痛い! 翼、翼が!』

 叫ぶ暇もなく、私の声はクロノアの声に引き戻された。

 右の翼が、ずきずきと熱を帯びていた。裂けた羽の隙間から、薄い桃色の肉が見えている。そのあいだに赤い血が小さく滲み、羽を濡らしていった。

 動こうとした瞬間、痛みが背筋の端まで突き抜けた。翼の付け根の奥を、熱した針で引っかかれる痛みが走った。

 私はくちばしを大きく開き、荒く息をしながら床に伏せた。

 その時。

 どん。どん。どん。

 身体の芯を揺らす足音が近づいてくる。大きな影が、天井の灯りを遮った。

 私は顔を上げた。大きな手が近づいてくる。指の一本一本が、木の柱ほどもある。

 身体をすくめ、目を強く閉じた。

 次の瞬間、温かな手のひらが腹の下へ差し込まれた。手のひらはやわらかく、少し乾いていた。かすかに、削った木と色鉛筆の芯が混ざった甘い匂いがする。

「助けて……助けてください……!」

 私は必死に鳴いた。けれど口から出たのは、小さく割れた鳴き声だけ。

 次の瞬間、大きな指が一本、私のくちばしの上をそっと撫でた。

「大丈夫……?」

 深く、温かく響く声。その端には、薄い氷が張っている。

 その声を頭の中で繰り返した瞬間、私は目を見開き、顔を上げた。

 整えられた黒髪が、目元にわずかにかかっている。切れ長の一重。その奥には、生気の見えない、雨の日の夜空のような黒い瞳があった。

 顔が近づくと、まだ若い木の皮に似た青い匂いが、ふわりと鼻先を撫でた。

 私は唾をひとつ飲み込んだ。両目を強く閉じ、もう一度開く。

 見間違えるはずがなかった。

 学級長であり、王家の末息子。カシアン・ルーンヘルム。

 カシアン様は眉をわずかに下げ、私の裂けた翼を見た。何も浮かばないはずの顔に、ごく小さな皺が寄る。

「怪我をしているのか……かわいそうに」

 その瞬間、私の身体からすべての動きが消えた。

 右の翼の痛みが、ふっと遠のく。代わりに、羽が一本ずつ逆立った。身体が勝手に丸くふくらんでいく。

「……え?」

 もちろん、口から出たのは、また小さな鳴き声だけだった。