車椅子令嬢は夜、青い鳥になる ~氷の王子様に溺愛され、私を捨てた全てに復讐します~

「つまり……あなたは、(とき)の精霊……クロノア様?」
『うん、そうだよ。思ったより飲み込みが早いね』

 思ったより。その言葉に、こめかみの横の髪がぴくりと揺れた。けれど今は、そこに引っかかっている場合ではなかった。

 整理すると、こうだ。

 私が悪夢だと思っていたあの地獄は、夢ではない。北進城砦(ほくしんじょうさい)で見た黒い平原も、空から降ってきた黒い雪も、身体が溶けていく感覚も、すべて本当に起きたことだった。

 そして、あの場所で私が胸元に入れた青い鳥。その鳥こそが、時の精霊クロノア。死ぬ直前、クロノアは自分の権能で時間を巻き戻したのだという。

 大きく息を吐き、掛け布を頭の先までかぶったまま、小さく尋ねる。

「では……私はあなたを、何とお呼びすればいいんですか……?」
『そのまま、クロノア様でいいよ』
「クロ……ノア……」

 名前を口の中で転がしてみても、現実味は少しも湧かなかった。

『じゃあ、わたしは君を何て呼べばいい?』
「……アリア。アリアでいいです」

 そう答えたあと、掛け布の中で両手を髪へ伸ばした。指が髪をつかんだ瞬間、腹の奥を誰かに握られたような感覚が込み上げる。

 そのまま、力いっぱい引いた。

 ぷつり。髪が数本切れる。

 もう一度力を込めると、ぷつ、ぷつ、と乾いた糸が切れる音が手の中でした。

『いたっ! 何してるの、アリア!』

 頭の中でクロノアの声が響く。

 私は答えなかった。

 今度は手のひらを開き、自分の耳を思いきり叩いた。

 ぱんっ。鈍い衝撃が、耳の奥まで広がる。

 もう一度、手を振り上げる。

『痛い、痛いってば! やめて!』

 手が宙で止まる。どれほど力を込めても、下ろせない。見えない手が、私の手首をしっかりつかんでいる。

 目元が熱くなった。喉がきつく締まる。

 涙が頬を伝って落ちた。抜けた髪が数本、濡れた口元に貼りつく。

「ひっ……ふ……」

 小さな声が、唇の間から漏れた。涙でぼやけた視界の奥に、いくつもの場面が次々と浮かぶ。

 私を見下ろす家族の冷たい目。何度も壊された車椅子の魔力石。鞄の中にこびりついていたスライムの残骸。

 そして――絵を受け取り、笑っていたエルヴァン様の顔。

 その瞬間、腕のまわりに青い光が浮かび上がった。小さな青い粒が、肌の上に現れる。水滴ほどの、塵ほどの、ごく小さな光が、腕を伝って上がっていった。それはやがて肩と首筋を越え、全身へ広がっていく。

 心臓の音が、少しずつ遠のいた。頭の中を埋めていた場面が、ひとつずつ離れていく。身体に入っていた力も、指先からほどけるように抜けていった。

 乱れた髪が、目の前で揺れている。抜けた場所の頭皮はまだひりつき、叩いた耳の奥では、鈍い音が残っていた。

『……少しは、息できる?』

 私は答えなかった。口を半ば開けたまま、月明かりを受けてかすかに光る自分の髪だけを見ていた。

『アリア、つらいのは分かるよ。でも、自分の身体を傷つけるのはよくない。わたしがそばにいるから。ね?』
「……あなたに。あなたに、私の何が分かるんですか……?」

 声が低く割れた。

 その言葉を最後に、頭の中の声はしばらく途切れた。私はそのまま座っていた。指一本、動かせないまま。



 どれくらい時間が過ぎただろう。

 涙はいつの間にか止まっていた。頬に残った乾いた跡が、肌をわずかにつっぱらせている。呼吸はまだ細かったが、少なくとも、さっきのように喉が塞がることはなかった。

 私はゆっくりと身体を動かした。

 魔導車椅子へ身を移し、机の方へ近づく。

 ちく、たく。魔導時計の秒針だけが、一定の間隔で部屋を満たしていた。

 私は恐る恐る口を開いた。

「クロノア様……いらっしゃいますか?」

 数秒後、返事が戻ってきた。

『うん。ずっといるよ、アリア』
「私が、おかしくなったのでなければ……本当にクロノア様が、私の身体に入ったんですね」
『入ったというより……ひとつになった、って言った方が近いかな』
「ひとつ……?」

 本棚に手を伸ばした。

 歴史書を一冊取り出し、机の上に開く。

 ――霜嶺王国史概説。

 厚い革の表紙には、王立魔導学院の印章が押されていた。

 震える指先で目次をめくる。そこから数枚、薄い紙をめくっていくと、古い挿絵のある章にたどり着いた。

 そこには、こう記されていた。

『精霊とは、創世の女神ルミナが世界を形づくる際、自らの権能の一部を分け与えて生み出した、清らかで尊い存在であると伝えられている。古代の偉人たちは精霊と契約し、火、水、風、時間、生命など、人の魔導では届かない力を借りたという』

 しかし、その記録のほとんどは星王曆以前の神話時代に限られていた。近い時代の記録は、ほとんどない。

 残っているのは、失われた信仰と、忘れ去られた契約についての短い注釈のみ。

 本をめくるあいだ、クロノアの声がまた頭の内側で響いた。そのたびに、眉間が小さく動く。

『君が今読んでいるとおり、精霊は特別な条件のもとで、生き物と契約を結ぶことがあるんだ。ただ、今はもう、ほとんどの精霊が姿を隠しているけどね』
「どうしてですか?」
『あなたたちが、わたしたちを探さなくなったから』

 クロノアの声は、意外なほど軽かった。

『精霊は信仰を糧にするの。でも今は、わたしたちを信じる者なんてほとんどいない。だから皆、自然と遠ざかって眠りについたんだよ。わたしはまあ、面倒が減って助かったけど』

 私は引き出しを開け、小さなペンダントを取り出した。丸い夜空の意匠の中に、瞬く星が十字の形で刻まれている。

「星様とは、違うんですか? 今でもほとんどの人は、星様を信じていますけど」
『違う違う。それは母様への信仰でしょ。わたしたちのことは、誰も信じてないの』
「母様……」

 ペンダントを裏返し、机の上に置いた。

 クロノアはそれ以上説明しない。私も尋ねなかった。

 本を閉じ、背表紙を本棚へ差し戻そうとした。そのとき、また声が聞こえる。

『とにかく、死ぬ前に見た位相喰(いそうぐ)い。覚えてる?』
「位相……喰らい?」
『黒いやつ。雪みたいな形をしてたでしょ』
「あ……」

 頭の中に像が浮かんだ。

 真っ黒な空から落ちてきた黒い雪片。残酷なほど美しかった、黒薔薇の結晶。私の手を貫いて沈んでいった冷たい花。

 指先が細かく震えた。腹の奥が、また揺れる。

 私は目を強く閉じ、深く息を吸った。

「それは……いったい何なんですか?」

 しばらく沈黙が流れた。

 クロノアの声が、低くなる。

『わたしにも分からない。ただ、ひとつだけ分かる。あれは、この世界にあってはいけないものだよ』

 その声の奥に、ごくかすかな震えがあった。

『触れたものの位相(いそう)そのものを歪めるもの。母様が設計した世界の(ことわり)に背くもの。すべてを食い尽くして、最後には無へ戻してしまうもの。わたしは、あれを位相喰い と呼んでいる。……せっかく寝てたのに、ひどい目覚ましだよ』

 私は唇を閉じた。乾いた喉の奥を唾がひとつ、落ちていった。

『あれに触れたせいで、君とわたしの位相が絡まったんだ。だから、わたしが権能で時間を巻き戻した時、君も一緒に戻ってきた』

 頭の中には、いくつもの疑問が浮かんだ。けれど、ひとまず飲み込む。

「よく分かりませんが、位相……つまり、私たちの魂が混ざったという意味ですか?」
『そうそう。正確には少し違うけど、今はそれでいいよ。だから精霊の力が強まる時間――母様が照らす夕暮れにだけ、こうしてあなたに話しかけられるの』
「星様が照らす時間……」

 そう呟きながら、窓の方を見た。

 星と月の光は、青の奥にかすかな赤みを含んでいた。その光が窓の形を床に落とし、淡い四角となって板張りの上で静かに揺れている。

 私はふいに身体を机の方へ向け、もう一度歴史書を開いた。

 精霊についての一節を探し、ペンで下線を引く。

『精霊は契約を結んだ者に、自らの権能の一部を貸し与える』

 私はその文に、太い線を重ねた。

「では、私も……クロノア様の力を使えるんですか?」
『ん? まあ、そうだね? 契約ではないけど、ひとつになってるわけだし。ある意味では、契約より強いかもしれない』

 その言葉を聞いた瞬間、指先が熱くなった。心臓が一度大きく跳ね、呼吸が浅く速くなる。

 私はペンを握りしめた。

「ど……どんな力ですか? 時間を巻き戻したり、ものすごい魔法を使えたり……」
『時間はしばらく巻き戻せないと思うけど……。どうして?』
「復讐したいんです。私を苦しめて、見下して、騙した人たちに。全部……」

 語尾が細かく震えた。奥歯を強く噛みしめる。

 歴史書の余白に描かれていた金髪の少年の落書きが目に入った。昔、授業中に何度もこっそり描いた顔。私はペン先を、その顔へ突き立てた。

 がり、とインクが滲む。もう一度、削るように線を重ねた。紙がじり、と裂ける。笑っていた顔は、すぐに形を失い、目元から黒いインクの涙を垂らした。

『復讐? それは、君が自分でやればいいんじゃない? ていうか、君を見下すやつがいるの? ふうん~ なかなか見上げた度胸だね』
「私が、ですか……?」
『うん。誰に復讐したいのかは知らないけど、魔法でまとめて吹き飛ばせばいいでしょ』

 私は目を細め、奥歯を小さく噛み鳴らした。

「からかっているんですか?」
『え? だって、君くらいの魔力なら、わたしの助けなんてなくても――』

 クロノアの声が、不意に止まった。さっきまでの軽さが消えた。言葉の隙間に、短い息が混じる。

『……あれ。何か、おかしい』
「おかしいって、何がですか?」
『少し待って。手、借りてもいい?』
「はい?」

 私が答えるのと同時に、右手が勝手に宙へ伸びた。

 見えない何かが手の内側へ入り込み、骨と(けん)のあいだをつかむ。私の手なのに、私の手ではなかった。指が一本ずつ開き、手のひらが上を向く。

 吐き気が喉元までせり上がった。

 やがて、手のひらが熱を持ち始める。かすかな疼きだったはずのものが、皮膚の下で膨らみ、指の骨の隙間まで入り込んでいった。

 黒い雪が触れた時の感覚が鮮明に(よみがえ)る。

「痛っ……! やめて、やめて……!」

 手から力が抜ける。

 左手で右の手首をつかみ、身体を丸めた。泣き腫らした目にまた涙がにじみ、口元からは唾液がこぼれる。

 手のひらには何もなかった。それでも、焚き火へ突っ込んだあとの熱だけが、まだ皮膚の奥で燻っていた。

『……ごめん』

 クロノアの声は低かった。そして続いた言葉に、私は痛みを忘れた。

『どうやら君、魔力を封じられているみたい』
「封じ……?」
『うん。どうやったのかは分からない。でも、あなたの中には魔力が溢れてる。なのに、出口だけが塞がれているんだ。水で満ちた泉に、誰かが石の蓋を押し込んだみたいに』

 私はその言葉を、ぼんやりと繰り返した。

 その瞬間、母の顔が浮かんだ。

 唇を強く噛んだ。薄い鉄の味が、口の中に広がる。

 そして机の上へ手を伸ばし、破れた落書きの部分を握りしめた。

 目は、白樺月七日の欄に釘づけになっていた。

 ――開花の茶会。

 クロノアが何度私を呼んでも。日付が変わり、就寝時間をとうに過ぎても。

 私は、その文字から目を離せなかった。