車椅子令嬢は夜、青い鳥になる ~氷の王子様に溺愛され、私を捨てた全てに復讐します~

 夕暮れ時。

 私は寮の部屋の机の前に座っていた。

 片手には衣装棚から取り出した真っ白なハンカチ。もう片方の手で、細い針を動かしている。

 針穴(はりあな)に通した青い糸が布を上下するたび、ハンカチの片隅に小鳥の輪郭が少しずつ浮かび上がっていった。

 隣には、カシアン様からもらったハンカチを広げてある。数針縫うたびに、そちらへ目を向けた。鳥のくちばしと翼の角度を確かめてから、また自分のハンカチへ針を通す。

 ふいに、頭の中に眠たげな声が響いた。

『ふわあ……おはよう、アリア』
「こんばんは、クロノア様」

 短く挨拶を返し、刺繍へ意識を戻した。

『何を作ってるの?』
「刺繍です」
『へえ……アリアは手先が器用なんだね。あれ? でも、これってわたしじゃない?』
「……」

 答えず、手だけを動かした。青い糸が、小さな翼の先をなぞっていく。

『ところで、隣のハンカチは何? こっちにも鳥の刺繍があるね』

 針が布の上で止まった。

 隣に広げていたハンカチを、そっと持ち上げる。

「これは……」

 言い終える前に、手が勝手に動いた。

 ハンカチが鼻先まで持ち上がる。布が鼻に触れ、わずかに残っていた若葉の青い匂いが入り込んできた。

『ん? この匂いは……』
「もう! 人の身体を勝手に動かさないでください!」

 すぐにハンカチを顔から離した。

『カシアンだ! 現実でもらったの? まさか、もうそういう――』
「クロノア様!」

 声が鋭く部屋を裂く。針のそばに置かれた糸巻きが、小さく揺れた。

 唇を固く結び、カシアン様からもらったハンカチを畳んだ。小鳥の刺繍が内側へ隠れるように、一度。

 そのまま、引き出しの奥へしまった。

「そういうのではありません。二度とそんなことを言わないでください。私なんかが、そんな……」

 最後まで出てこなかった言葉が、口の中で薄れていった。

『……ごめん』

 私は返事をしなかった。

 もう一度、刺繍を手に取った。針先を布へ当てても、目は何度も同じ場所を滑り、糸の行き先が定まらなかった。

 結局、糸が絡まないようにハンカチを畳み、それも引き出しへしまった。

 それから鞄を開き、ワープスクロールと回復スクロールを一枚ずつ取り出した。本棚の本の間に隠していた小さな紙も広げ、机の上へ置く。

 そこには、見慣れないルーン文字がひとつ記されていた。

 線は細く、鋭い。左右へ伸びた線が中央を貫き、人間の両脚をかたどっている。

 身体の一部を示す、黒魔術の古代文字。

 ワープスクロールを開いた。完成している術式の線を避け、その文字を一画ずつ差し込んでいく。

 目的地を定めるルーンと、移動対象を結ぶ線の間。初めからそこに組み込まれていたと見えるよう、青いインクで慎重に書き加えた。

 最後の一画を終えると、スクロール全体が青く明滅した。ただし、新しく加えた文字の前で光は止まった。

 周囲のルーンは青く揺れているのに、『脚』を示す部分だけが色を失い、空白のまま残っている。

『アリア……本当にやるつもりなの?』
「はい。当然です」

 ペンを置いた。息を整えてから、言葉を続けた。

「それに、方法を教えてくださったのはクロノア様でしょう」
『それは君がずっと髪を引っ張って脅すから……』
「人間が勝手に決めた禁忌(きんき)にすぎないと言ったのも、クロノア様です。星様の御意思(みこころ)に、本当に背くわけでもないのでしょう?」

 クロノアは答えなかった。

 私はスクロールの上へ手のひらを置いた。

「早く手伝ってください」
『う……うん。もう一度だけ説明するね』

 クロノアの声から、いつもの軽さが消えた。

『魔法は、位相の中にある魂の泉から魔力を引き出して、外へ放つ技術。でも、君たちが黒魔術と呼んでいるものは違う』

 私は手のひらの下にあるルーンを見下ろした。

『魔力の代わりに、自分の位相の一部を切り離して、相手の位相へ直接押し込むんだ』

 私はその先を引き取った。

「一つの生命が抱えられる位相の量には、限りがある」

 幼い頃に習った文章を口にした。

「異物となる位相が入った分だけ、本来の位相は押し出されるか、引き剝がされる。その場所を歪な術式が占めることで、身体の壊死(えし)や幻覚、神経痛などの症状が現れる」

 教会で何十回と聞いた教戒(きょうかい)が、あとに続いた。

「星様が創りたもうた魂の器に、異物の文字を刻むべからず。他者の位相を侵す者は星の秩序を裂き、己の名もまた夜の外へ投げ捨てる者なり」

 部屋が静まり返った。魔力時計の秒針が、一目盛り進む音だけが聞こえた。

 指先から滲んだ汗が、スクロールの縁をわずかに湿らせていく。

『そう。位相そのものを使うから、魔力を封じられている君にも使える』

 クロノアの声が、さらに低くなった。

『ただし、押し出した分だけ君の位相も失われる。それがどういう意味か、分かってるよね?』
「はい」

 ゆっくりと目を閉じた。

『アリア。本当に、そこまで復讐に執着しなくちゃいけないの? 時間をかけて、魔力の封印を解く方法を探すとか――』
「大丈夫です。一度死んだ身体ですから」

 スクロールの上で、指がゆるやかに曲がった。

 切り落とされた手首を押さえ、震えている私を見下ろしていた、あの視線。私を見下ろしていた母の瞳。折られた色鉛筆。破かれたノート。食堂で頭からかけられた牛乳。引き裂かれた運動着。

 その言葉を、ひとつずつ頭の中でなぞった。

「彼らは、そんなに甘くありません。信じていた人も、結局はみんな私を捨てました。時間をかけすぎれば、未来の記憶を武器にすることもできなくなります」

 一度深く息を吸い、吐いてから続けた。

「……何も持たない私が、あの人たちに手を届かせるには、私も何かを差し出さなければなりません」
『それでも……』
「それに、鳥の姿でなければ、クロノア様の位相が削られることもないのでしょう」

 目を閉じたまま告げる。

「始めてください」

 長い沈黙のあと、クロノアが短く息を吐いた。

『……身体全体の流れへ意識を向けて。位相は君の身体であり、君を君として保つ流れそのもの。その流れを、指先から少しずつ押し出すんだ』

 私は呼吸を整えた。意識を身体の内側へ沈める。

 心臓よりも、さらに深いところ。血の流れも、骨と肉の境目も届かない場所に、かすかな温かさがあった。

 その温もりをつかんだ。途端に、頭の中へいくつもの言葉が押し寄せた。

 魔力もない半端者。

 尻軽女。

 誰かが養分にならなければならない。

 顎に力が入る。奥歯が擦れ、小さな音を立てた。

 手のひらをスクロールへ強く押しつけ、身体の奥にある温もりを、無理やり指先へ押し流した。

 指の内側から、細い糸が一本引き抜かれていく感覚。目には見えない。それでも、確かに何かが抜け落ちていた。

 白い光が、閉じた瞼の上へ広がった。

 薄く目を開いた。

 最初は、針先よりも小さな光。それが細い糸となり、ルーン文字の上を流れ始める。

 青い魔力線とは混ざらず、空白だった『脚』の線を、一画ずつ満たしていった。

 雪の上へ、月明かりを一滴落とした色。

 ぼやけてもいない。眩しくもない。あまりにも澄んでいて、周囲の青いルーンがすべて濁って見えた。

「真っ白ですね……」
『それが君の位相の色。魔力は身体の中を流れる間にいろいろな性質が混ざるから、ほとんどは青系の色になる。でも、位相は加工されていない魂そのものだから』
「へえ……」

 完成したスクロールを持ち上げた。

 その途端、部屋が横へ傾く。こめかみの奥で鈍い振動が響き、視界だけが一拍遅れてついてくる。

 身体の内側から熱が込み上げた。

「う……」

 続いて太腿の内側に、鋭い痛みが走る。

 呼吸を整えてから、スカートの裾をわずかに持ち上げる。

 太腿の内側に、乾いた地面を走る亀裂に似た、細い黒い線が浮かんでいた。長くはなかったが、その周囲の肌が薄い灰色へ変わっている。

異端(いたん)刻印(こくいん)……」

 引き出しを開けた。

 絵を描く時に紙やキャンバスを切る、小さな短刀を取り出す。

 一拍おいて、黒い亀裂の上へ刃先を当てた。

『うう……目を開けていられない……』

 クロノアの声が震えた。

 私はそのまま、刃を引いた。

「っ……!」

 手が震える。刃のあとに沿って、細い赤い線が開いた。額に滲んだ汗が、こめかみから頬を伝う。

『いたっ!』

 クロノアの悲鳴が、頭の中に響いた。

 傷口がひりついた。

 目に刃を入れられたあの時よりは短い。手首を失った時ほど、頭の中が白くなることもなかった。

 私は歯を食いしばり、刃先を最後まで滑らせた。

 血のついた短刀に、自分の顔が映った。

 口元が、わずかに上がっている。

 一度、瞬きをした。もう一度刃を見る。

 そこには、眉間をかすかに寄せた顔しか映っていなかった。

 視線を外し、回復スクロールを持ち上げる。

「ヒール」

 青い粒子が、スクロールの上から立ち上がった。

 小さな光が宙を漂い、血の流れる太腿へ降りていく。開いていた傷口が、端から少しずつ閉じ始めた。赤い隙間が細くなり、やがて完全に塞がった。

 残ったのは、ひりつく熱だけだった。

 布で血を拭った。

 黒い亀裂は消えている。そこには、刃の通った赤い跡だけが薄く残っていた。

 身体を丸めたまま、私は口を開いた。

「これをあいつが使えば……」
『……脚だけが移動対象から外れた状態でワープする。死にはしないけど、君と同じで、失われた位相の場所に黒魔術の刻印が残るよ』

 私は完成したスクロールを見下ろした。

「気づかれる可能性は……ないんですよね?」
『ワープは構造がかなり複雑だから……よほど鋭い術者(じゅつしゃ)でなければ、別の術式が混ざっているとは見抜けないと思う』

 私はスクロールをゆっくりと巻いた。

 指先には、まだかすかな震えが残っている。

 太腿の赤い跡へ、手のひらを置いた。

 ――これで、あなたも。

 いつまでも、見下ろす側に立ってはいられませんね。