好きになる前に、恋人になった――いつか、君につながる

日が傾き始めた鎌倉を、私は呉凱(ウー・カイ)と並んで歩いていた。
昼食を食べて、それから名所をいくつか回った。途中でコーヒーを飲んで、気づけばもう夕方だった。

凱がふと聞いた。

「这里离海近吗?」
(ここから海、近いかな?)

近いよ、そう答えて、私たちは由比ヶ浜へ向かうことになった。

海に近づくにつれて、潮の香りが強くなっていく。
昼間よりも風が冷たくなっていた。

呉凱。

隣を歩くこの人は、中国を代表するトップ俳優。
アジア中にファンがいる。整った顔立ちで、特に女性からの人気はすごい。

でも、それだけじゃない。
主演作も多く、長年第一線で活躍している実力派俳優だ。

今日ずっと一緒にいたせいなのか、ときどきそのことを忘れそうになる。でも、ふと横を見ると、やっぱり思い出す。

キャップにサングラス、それからグレーのマスク。かなり顔を隠しているのに、それでも目立つ。

背が高くて、顔を見るには少し見上げないといけない。
それに肩幅も広くて、ジャケット越しにも、鍛えられた体つきがわかる。

仕事で何度か会って、少しは見慣れたつもりでいた。それでも、ふいにこちらを向かれると今でも少し困る。

まあ、それくらいは仕方ない。
だって、こんなにかっこいいんだもん。
そうなっちゃうよね、うん。

でも、そのことと、何かがあるかどうかは別の話だけれど。

道の先に海が見えた。
人の姿も少しずつまばらになっていく。
凱は一度周囲を見てから、マスクを外し、少しして空を見上げた。

「……快要日落了」
(……もうすぐ日が沈むね)

「想看吗?」
(見たい?)

凱は静かにうなずいた。口元が少し緩んでいる。

嬉しそう。

私たちは砂浜に降りて、並んで腰を下ろした。

隣で凱がサングラスを外す。
隠れていた目が、そのままこちらを向く。

一瞬、目が離せなくなった。
見慣れたはずなのに。

「奈绪」
(奈緒)

名前を呼ばれて、少しだけ胸が跳ねる。
なのに凱は、何事もなかったみたいに海へ目を戻す。

……ほんとずるい、こういうの。

きっと、海を眺めながら、この時間を楽しんでいるんだと思う。
だから私も、何も言わなかった。

この沈黙も悪くない。

見慣れた夕焼け。
見慣れた海。

こうして日が沈んでいく光景は、いつまでだって見ていられる。

しばらくして、凱が口を開いた。

「……我以前来镰仓的时候,只待了一天」
(……前に鎌倉に来たとき、一日しかいなかったんだ)

静かで、穏やかな声。

「你说过。拍戏的时候,对吧?」
(言ってたね。撮影のときでしょう?)

「嗯」
(うん)

前は仕事だったし、観光する時間がなかった。
今度はちゃんと見てみたい。よかったら案内してくれないかな。

そんな連絡が来て、いま彼はここにいる。
私が鎌倉出身だと知っていたからだと思っていた。

でも。

「其实,我这次来日本,不是因为想来这里」
(実は今回、日本に来たのは、鎌倉に来たかったからじゃないんだ) 

「……え?」

思わず彼を見る。
凱はほんの少し笑った。でも、すぐにその笑みは消えた。

「我想见你」
(君に会いたかった)

「……」

何も言えなかった。あまりにも唐突だった。
中国語を聞き間違えたのかと思った。

だって、あれだけ忙しい人が、わざわざ日本に来て。
私に会いたかった?

でも、凱はもう笑っていなかった。
まっすぐ、私を見ている。

冗談にして逃がすつもりがないことだけは、わかった。
その目を見た瞬間、胸の奥が今度はさっきより強く跳ねた。

「……有件事,我一直想告诉你」
(……ずっと、君に言いたかったことがあるんだ)

凱は小さく息を吐いた。
それから、ほんの少しだけ笑った。
少しだけ、困ったような。照れたような。

「我想……我是被你吸引了」
(俺、君に惹かれてる)

一瞬、波の音だけが聞こえた。
私は、答えを探した。

けれど、何を言えばいいのか、まだわからなかった。