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大学に入ってすぐ、家を出た。
奨学金と、深夜まで入れるベーカリーのバイトで、
なんとか生活を回していた。
その店に彼が――玲司くんが、初めて来たのは、
閉店間際の雨の夜だった。
「まだ開いてますか」
傘も差さずに立っていた彼に、
反射的に「はい、大丈夫です」と答えてしまった自分を、今でも覚えている。本当はもう看板を下げようとしていた時間だったのに。
彼は残っていたパンをいくつか選び、レジに並べた。会計をしながら、ふと視線を感じて顔を上げると、彼はまっすぐこちらを見ていた。
「あの、大丈夫ですか?」
意味が分からず、聞き返した。「え?」
「さっきから、ずっと片手で腰を支えてる。立ちっぱなしがつらいんじゃないですか」
指摘されて初めて、自分がそうしていたことに気づいた。誰にも――家族にすら――気づかれたことのない癖だった。
「……大丈夫です。慣れてるので」
そう答えると、彼は少しだけ困ったように笑って、「そうですか」と言った。それだけ言って、彼は店を出ていった。
それから彼は、週に二、三度、閉店間際に現れるようになった。多くを話すわけじゃない。ただ、必ず「今日はどうでした」と聞いてきて、こちらが「普通です」と流しても、「本当に?」と、もう一歩だけ踏み込んでくる。
誰かに心配されるということに、私はひどく不慣れだった。
両親にも、兄や妹にすら、そんなふうに聞かれたことはなかった。最初は戸惑い、少し面倒にすら感じた。
でも――
ある日、閉店作業中に立ちくらみを起こして、パンの棚にぶつかりそうになったとき。たまたま居合わせた玲司さんが、何も言わずに私の腕を支え、店の奥の椅子に座らせた。
「今日、何か食べました?」
答えられなかった。朝から何も口にしていないことに、自分でも今気づいたからだ。
彼は何も責めなかった。ただ、さっき買ったばかりのパンを一つ、黙って手渡してきた。
「食べてください。」
「……そんな、悪いです」
「悪くないです。俺が勝手に心配してるだけなので、優花さんは気にしなくていい」
名前を呼ばれたのは、それが初めてだった。いつの間にか名乗っていたことすら忘れていたのに、彼はちゃんと覚えていた。
苦手だ、
なんだか、こんなに心配されると
自分が大切なものみたいな、変な感じ…居心地が悪かった。
けど、初めて誰かに「何も返さなくていい」と言われた気がした。頼まれてもいないのに誰かのために動くことには慣れていたけれど、逆はまるで経験がなかった。
生まれて二十年で、たぶんこれが初めてだった。
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