それから訪れるたび、同じようにメモが置かれていた。
『今日も助かりました』
『お土産です、お子さんとどうぞ』
顔を合わせることは、一度もなかった。
それでも、会ったことのないその人の気配だけは、部屋を訪れるたびに、少しずつ輪郭を帯びていった。
***
朝は、いつも戦争だった。
「陽葵、靴下!片方どこいった!」
「んー知らない!」
娘の陽葵は、四歳にしてはやけに要領がよく、身支度は早いくせに、でもなぜか片方の靴下だけをいつも神隠しのように消してしまう。ソファの下、おもちゃ箱の中、時には冷蔵庫の脇。今朝はカーテンの裏から発見された。
「もう、こんなところに」
「かくれんぼしてたの」
「靴下がー?笑」
「そう!」
意味の分からない理屈に、笑いながら靴下を履かせる。
保育園の支度を終え、簡単なトーストを頬張らせながら、髪を結い上げる。不器用な二つ結びは、いつまで経っても左右対称にならない。それでも陽葵は鏡を覗き込んで、「かわいい」と満足げに笑うから、それでよしとしていた。
保育園に送り届け、そこから仕事へ向かう。
九条様の部屋の担当日は、月に数回。決まって陽葵を送り出したあとの、静かな時間帯だった。
***
その部屋を訪れる日は、正直、少し楽しみになっていた。
理由は、はっきりしている。
テーブルの上に残された、あのメモのせいだ。
『可愛い形で娘さんが好きそうかなと、よければどうぞ』
いつからか、メモの内容に「お子さん」が登場するようになっていた。
誰からそんな話が伝わっているのか分からない。
もしかしたら、社長が世間話のついでに話したのかもしれない。それにしては、内容が細かすぎる気もしたけれど、深く考えないようにしていた。
置かれているお菓子は、いつも上品で、それでいて子ども向けの甘さがきちんと分かっている選び方だった。
派手すぎず、地味すぎない。誰かが本当に、こちらの生活を想像して選んでいるような気がしてならなかった。
「今日はクマさんクッキー?」
夜、袋を開けて見せると、陽葵は目を輝かせた。
「これね、優しいお客さんが選んでくれたんだよ」
「会ったの〜?」
「会ったことないけど……なんか、優しい人だなって分かるの」
我ながら、変な説明だと思った。でも、それ以上の言葉が見つからなかった。会ったことのない誰かの気配を、こんなにも身近に感じるなんて、経験したことがなかった。
***
夜の時間は、忙しなくも、一番大切な時間だった。
お風呂で陽葵の髪を洗いながら聞かれる、
今日あった保育園の出来事。
誰々ちゃんと喧嘩した、
誰々くんに絵本を取られた、
先生に褒められた――
そのひとつひとつに相槌を打つ時間が、
一日の疲れを溶かしてくれる。
「ねえママ、パパは?」
不意に聞かれる質問に、心臓が小さく跳ねる。
頻度は少ないけれど、時々こうして陽葵は聞いてくる。友達の家にお父さんがいることに気づき始めた年頃なのだと分かっていた。
「パパはね、遠くで頑張ってるお仕事してるの」
嘘ではない。ただ、真実からは、意図的に遠ざけた答えだった。陽葵はそれ以上深追いせず、「ふうん」とだけ言って、湯船の中でアヒルのおもちゃを泳がせ始めた。
子どもの興味は移ろいやすくて、今はそれに救われている。
湯上がりの陽葵に絵本を読み聞かせる頃には、こちらのまぶたも重くなっている。それでも、隣で規則正しい寝息を立て始める小さな体を見ていると、不思議と力が湧いてきた。
――大丈夫。この子と二人で、ちゃんとやっていける。
その確信は、
四年間、
毎晩繰り返してきた自分への言い聞かせでもあった。
***
九条様の部屋を訪れるたび、少しずつ、想像を膨らませるようになっていた。
きっと忙しい人だ。
いつ訪れても在宅していたことがない。
それでいて、部屋には几帳面さが滲んでいる。
本棚の並び、
置かれた小物の位置、
几帳面に畳まれたブランケット。
そして、少し不思議な特性を持っている…
すこし不思議さんなのかもしれない。
なぜこんな所に…っていう場所で
片方の靴下が出てくる。
陽葵を思い出して笑ってしまう。
決して几帳面すぎない、ちょうどいい生活感が、
なぜか心地よかった。
どんな人なのだろう、と思うことが増えた。
顔も知らない。声も知らない。
メモに滲む気遣いの気配だけで、少しずつ、その人の輪郭が像を結び始めていることに――ある夜、ふと気づいて、自分でも驚いた。
まさか。そんなはずはない。
そう自分に言い聞かせながらも、次の訪問日を、心のどこかで待っている自分がいた。

