声にならない思いをきみに

末山愛斗は、療養病棟でソーシャルワーカーとして働いていた。
ここは主にがんを患った人や、介護が難しい高齢者が入院する場所で、元気になって家に帰る患者は一人もいない。ただ、穏やかな最期を迎えるための時間を過ごす場所だった。
朝、制服に着替え終えた愛斗は、まずナースステーションで朝の申し送りを受け、それから各病室へと様子を見に回った。
三人部屋に入ると、太田玲子、山崎亜紀子、野中正美の三人が、それぞれのベッドで過ごしていた。亜紀子は糖尿病で長く入院している。
「マームちゃん、クッキーください」
亜紀子が弱々しく手を伸ばした。
「朝から甘いものを食べるのは、もったいないですよ」
愛斗が声をかけると、隣の玲子がすぐに口を挟んだ。
「あげたらいいじゃない。私たち、どうせすぐ死ぬんだから」
愛斗は一度ナースステーションに戻り、婦長の三木康子に相談した。「一度だけなら」と許可をもらい、近くの売店へクッキーを買いに走った。
病室に戻って亜紀子に手渡すと、亜紀子はすぐに玲子と正美にも分けてくれた。
「もしよかったら、少しだけお湯でふやかして柔らかくしましょうか? 食べやすくなりますよ」
愛斗がそう言うと、亜紀子は急にきつい口調になった。
「うるさい!」
愛斗が戸惑っていると、亜紀子は隣の二人に向かって言った。
「ねえ、この人と話してたら、なんて言われたと思う? 『うるさい』だって」
正美が笑うように言った。
「まあ、声が出るなんてすごいじゃない。最近はあまり話さなかったのに」
すると亜紀子は、愛斗を見上げてはっきりと言った。
「あんた、嫌い」
「えっ…?」
愛斗は思いがけない言葉に驚き、それ以上言葉を返せずに、そっと病室を出てナースステーションに戻った。
その日は一日中、事務作業や家族との面談をこなしていた。
日が暮れて夕方になった頃、看護師が慌ただしく亜紀子の病室に駆け込んだ。急に呼吸が苦しみだしたという。点滴を打って様子を見守ったが、亜紀子はそのまま眠るように意識を失った。
夜になって容態が急変し、山崎亜紀子は息を引き取った。
隣のベッドの正美が、静かな病室の中で「ご臨終です」と聞いて、声を上げて泣いた。
深夜、見回りに病室を訪れた愛斗は、正美の体が冷たくなっているのに気づいた。呼びかけても反応はなく、医師の確認を待つまでもなく、野中正美も静かに亡くなっていた。
愛斗は二人のエンジェルケアを丁寧に施し、朝を待った。
次の日、ナースステーションに行くと、昨日まで聞こえていた玲子の元気な声が、ぱったりと聞こえなくなっていた。
看護師から、太田玲子も朝に亡くなったと告げられた。
三人が同じ病室から、一日も経たないうちにいなくなってしまった。愛斗は言葉も出ず、ただ呆然と病室へ向かった。ベッドの片付けをしていると、玲子が分けてくれたクッキーが一つ残っていた。それをそっと口に入れると、甘い味が広がった。
「ああ、おいしい…」
クッキーを噛みしめながら、愛斗はふと想像した。
きっと今頃、三人はどこかで集まって、にぎやかにおしゃべりしながら、このクッキーを分け合っているのだろう。「うるさいわね」「いいじゃない、死ぬ前くらい楽しく過ごさせてよ」なんて、いつものように言い合いながら——。
その後、気持ちを切り替えて次の病室へ向かった。幸村サチの食事介助をするためだ。
サチは愛斗の顔をじっと見つめてから、両手を広げて抱きついてきた。愛斗はその背中を優しく撫で、ゆっくりと食事を口元に運んだ。
介助を終えてナースステーションに戻ると、婦長の三木康子と同僚の桜井が待っていた。愛斗は三人のこと、そしてサチの様子について、二人に話し始めた。
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