幼馴染の白石 麦は小さい頃から(良い子)だった。
保育園の発表会では、誰よりもキレのあるダンスを披露して大人を驚かせたし、小学校に入ればテストは常に100点。
高学年になると、特設陸上部や特設水泳部に参加して好成績を収めていたし、生徒会委員長も務めた。
誰にでも優しくて努力家で、勉強家で、人気者だった麦。困った人がいればすぐに手を差し伸べ、先生からの信頼も厚かった。
そう、彼女は優等生ってやつだった。
そんな麦に、僕は片思いをしている。
今日こそ、今日こそ。って毎日思うのに、今の関係を失うことが怖くて想いを伝えられないまま、中学校卒業式の日。
「ずっと麦が好きだった。」
蛍の光がスピーカーから流れる教室で1人、最後の片付けを終えようとしていた麦に告白……する筈だった。
彼女は困ったように眉を下げ、僕と目を合わせて恥ずかしそうに笑う。
「私も春希が好き」
言いかけた彼女の肩をそっと抱き寄せ、キスをする。
そんなシミュレーションを何度もした。
でも、現実はそう上手くいかなかった。
静寂の中、僕は卒業生の席に座っていた。
「──続きまして、卒業生代表謝辞」
教頭先生の声が響く。
壇上へと続く階段の下、緞帳《どんちょう》の陰に麦の姿が見えた。
全生徒と卒業生の保護者、それに先生達。何百人もの視線が、静かに壇上へと注がれていく。その中で、麦は背筋を伸ばし、凛とした姿で立っていた。
遠目から見ても、彼女の表情はいつもより強張っているように見えた。
最初は緊張だと思った。当然だ、大勢の前で謝辞を読むんだから。
けれど、階段の下で立ち尽くしたまま、彼女の肩がわずかに震えているのに気づいた瞬間、胸の奥に小さな違和感が生まれた。
(……麦?)
原稿を握る手が、震えているように見える。席から身を乗り出しかけて、けれどすぐに止まった。
麦の晴れ舞台を邪魔する訳にはいかないと思ったんだ。今は卒業式の最中で、これが中学生最後の思い出だから。
けれど、麦の肩が少しずつ上下し始めるのが見えた。それも、明らかに尋常じゃない速さで。
(なにがどうなってるんだ?朝はいつも通りだった筈……)
膝の上で、拳を握りしめる。立ち上がりたい衝動が、腹の底から突き上げてくる。けれど、体育館は水を打ったように静かで、この距離からでは、声をかけることさえできない。
麦の体が、少しずつ傾いでいく。緞帳の裾を掴む手だけが、辛うじて彼女を支えているように見えた。
(何かおかしい……麦?)
麦の膝からゆっくりと力が抜けていくのがわかった。しゃがみ込む彼女の姿が、緞帳の陰に消える。
体が勝手に浮きかけたけれど、隣に座っていた誰かの視線を感じて、また座り直してしまう。動けない。動いていいのか、わからない。声を上げていいのかも、わからない。ただの一介の卒業生に過ぎない自分が、この静寂を破っていいはずがない――そんな理性と葛藤が、体を縛りつけていた。
会場全体がざわつき始め、囁くような声が、少しずつ広がっていく。
その時になって、袖にいた先生が緞帳の陰へと駆け寄っていくのが見えた。安堵と、それ以上の焦りが、同時に胸を締めつけた。
(大丈夫か、麦)
拳を握りしめたまま、僕はただ、その場から動けずにいた。何百人もの卒業生と保護者に囲まれた、この厳かな式の中で。
今思えば、誰の目も気にせずに駆け寄るべきだったんだ。
あの日の救急車の音は、今も鮮明に耳の奥に残っている。


