都立特別支援学校で起きたハラスメントの記録(リライト版)

4月4日ごろ 質問を無視される、出席簿のことなど尋ねても、まともに教えてもらえずウザイと言わんばかりの答え方をされる、ということがあり、もう、人に質問することはできない、すべて自分で調べるしかない、と感じた。

 14日(土)心療内科を初受診、医師に「うつ」と言われ、辛いようならしばらく休めるよう診断書を書いてもいい、と言われた。結論として、今までどおり働きながら、服薬をするところから始めた。
 16日(月)カズオくんの胸にひっかき傷があるのが授業時間内に見つかり、学校側(=たかぎ)が病棟の方に疑われる。授業時間内に、カズオくんがゼコゼコしはじめ、男性看護師が胸を強く押して痰を出すのを支援していたが、教員はカズオくんの胸には触っていない。濡れ衣だと感じた。
 17日(火)カズオくんの車椅子乗車。不安だったが、一人で行った。病室を出たところで痰を看護師に吸引していただき、4階教室に向かう。途中、よい天気だったので、5分ほどバルコニーで日光浴をする。教室に入り、しばらくするとカズオくんが咳き込み、SPO2が70台にまで下がった。その時、私がカズオくんを横から見て、カニューレが抜けているのを発見し、急遽病棟に戻り看護師に挿入していただいた。抜けた直接の原因はわからない。咳き込みだけではなかなか抜けるものではない、と砂村主任は言っていた。たぶん、私が車椅子に乗車させた時点でカニューレが外れかかった状態になり、痰を吸引した看護師がそれを見落とし、教室での咳き込みで外れたのでは?と私は推測している。
 カズオくんは再び授業に戻り、車椅子から床のマットに降りて身体をほぐしたり布遊び、手遊びをしたりした。授業が終わり、床から私がカズオくんを抱き上げ、車椅子に乗せようとした拍子にカニューレが抜けた。急遽病棟に戻り、看護師に挿入していただいた。
 放課後、主任の指示で事故報告書を2件作成した。
 カズオくんの授業に、昨年度経験者が入るように体制が組みなおされた。
 服薬していたおかげで、パニックにならず、落ち着いていることができた。
19日(木)小学部窓口より、病棟の看護師長に事故報告の病院側の書式をもらい、作成するよう指示を受け、看護師長のもとに向かう。看護師長からは「このような事故ははじめて」と厳しく注意された。(事故報告は学校書式でよいとのことだった)

*事故後、砂村主任に「おはようございます」と挨拶をして無視されることが数回あった。
 迷惑をかけたから仕方が無い、と思ったが、辛かった。

4月第四週:高1のマツヨさんの誕生日寄せ書きカードが全教員に配られ、それぞれがお祝いのメッセージを書いて担当の原tが集約していた。私は「생일 축하합니다 お誕生日おめでとう」と朝鮮語と日本語でお祝いメッセージを書いた。原tが「書き直してほしい」と言ってきたので、何がいけないのか理由を尋ねた。「難しいお母さんだから」というよくわからない答えだったので、「もし、気になる点がおありだったら、私がお母様に直接お話をします」と申し上げたところ、原tは、「マツヨさんが読めない文字でメッセージを書くのはどういう意図があるのか」などなどお母様が徹底的に突っ込んでこられると思う、これまでもいろいろな場面で問い詰められ、なかなか納得されないことが何回もあったと言った。「お誕生日おめでとう、の文字もちゃんと入れていますけど」と原tに言ったが、原tの話では、そんなことで納得するお母様ではないとのこと。私は、この話を聞いて、マツヨさんのお母様が通常のコミュニケーションが取れない状態にあると判断せざるをえず、原tに「お母様は心の闇を抱えておられるのですね。仕方がありませんから、書き直します」と言って、無難なもの(女の子の絵)に差し替えた。
*5月1日の川上副校長の話:保護者もすごく違うし、ナイーブだし、問題を抱えているし、そこのところは、先生が(2月に)私が校長とお話した時に、いろいろポリシーはお持ちだと思うんですけども、先生のお考えね、ポリシー(いやらしい言い方!)。あと、教育活動はこういうことが大切だ、というのはお持ちだと思うんですけれども、そこのところは注意していただきながら、ひとりひとりの保護者のお考えもいろいろあるので、そこの注意を受けながら、これ以降の教育活動をしていただきたいな、というのが今日の話の趣旨です。
→あきらかに、誕生日の寄せ書きカードでの原tと私のやり取りを聞いていた人が、川上副校長に密告したとしか思えない。しかし、ハングル文字の入ったメッセージカードを排除しようという話に「はいそうですか」と答えるほうがよほど非教育的であり、差別そのものであり、子どものためにならないはずだが。

4月25日(水) タケヨさんのベッドサイドでの授業。「先生とお友だち」という、子どもに教えたくないと私が考えている歌を、タケヨさんの担当の中山tにソロで歌うよう強要される。「その歌は歌えない」と答える。(※詳細は下記レポート)
この日は、午前・午後と中山tが担当している児童の授業に入ったが、車椅子の乗せ方や身体への関わり方など、得々と専門用語を織り交ぜながら(全部聞き取れたので問題はなかったが、ものすごく感じ悪いと思った)、怖い口調でいろいろ指示され、間違えたり行き届かなかったりするとまた怖い言い方で言われ、緊張してインシデントだけは起こすまいと必死だった。授業のあとに、私が事故を起こしたカズオくんの病棟内ケース会が控えていて、それもかなりプレッシャーだったが、その部分は自分が起こしたインシデントだから、自分に責任があると認識している。歌の強要をされたあと、授業が終わり、ケース会の時間までの間、気持ちを落ち着けようとトイレに行った。トイレに座ると、中山tが怖かったのと、カズオくんに申し訳ないのと両方で、泣いた。泣き声が病棟の人に聞かれないよう、ハンカチで口を押さえて、落ち着くのをしばらく待った。幸い、トイレには誰もこなかったので助かった。

※「先生とお友達」レポート(「障害児者」関連の機関誌に寄稿)
4月より、都内の肢体不自由特別支援学校に異動となりました。配属は、病院内の分教室です。生まれて初めて、気管切開や胃ろうのある人たちと出会いました。学校時代の隣の机のクラスメートとしてではなく、教員と生徒という関係で彼らと初めて出会ったということは、決して幸せなことではないと痛感しています。
 分教室の「先生」方を見ていて気になるのは、生徒を「ちゃん」づけで呼ぶこと、生徒に猫なで声で話しかけること。小学生はもちろん、中学生にまで「みほちゃん」「たあくん」式の呼び方をするのを、毎日のように耳にします。猫なで声で生徒に話しかけているのを聞くと、自分の息子や娘、甥姪にも同じ言い方で話しているのかな?といぶかりたくなります。自分自身も気がつくと「ちゃん」付けで生徒を呼んでいたり、変な猫なで声を出していたりしています(反省)。
 最大限「善意」に解釈すれば、強い刺激に弱い、重い障害をもった子どもたちへの「配慮」なのかもしれません。しかし、年齢相応に普通に話しかけたことが原因で生徒の状態が悪くなった、という話は一度も聞いたことがありません。「配慮」というより、大人の側の単なる「思い込み」に過ぎず、生徒が自分と同じように意思をもつ人間だと考えていない証拠だ、と私は感じています。
 つい先日、小さな「事件」がありました。授業の予定があった生徒が体調の関係で、ベッドサイドで授業をすることになり、彼の担当のA先生(=中山t)と新米の私が病室に向かいました。A先生が彼と手遊びを行っている間、私は彼の足をゆっくりマッサージしていました。A先生の歌っている手遊び歌はというと……
 ♪先生と お友だち
  先生と お友だち
  握手をしよう ぎゅっぎゅっぎゅっ♪
というものでした。私は、一刻も早く次の絵本読み聞かせに移らないかと内心ヒヤヒヤしながら、彼の足をなでていました。A先生は不意に私に向かって、同じ歌で手遊びをするよう求めてきました。私は「その歌は歌えない」と言って断りました。A先生は「子どもの前だから(そんなことを言うのはやめてほしい?)」とおっしゃったので、私は「こういう歌は子どもに聞かせたくない」とだけ申し上げました。心の中では怒りが渦巻いていました。
 私は、初任の頃にある人から、「先生」という言葉は敬称であり、それを一人称にするのは恥ずべきことだと教わりました。私は、生徒の前で自分を指すときは必ず「私」を使っています。
 もう一つ。師弟関係と友だち関係は根本的に違います。「友だち」というのは対等な関係です。この歌は、教員と生徒という対等ならざる(あきらかな力関係がある)関係を「お友だち」という言葉で糊塗し、その上で「握手」をして「仲良く」しよう、というウソの上にウソを塗り固めた歌だと感じざるを得ません。他人が歌うことをことさらに止めるつもりはありませんが、私は、こういう形で「友だち」という素敵な言葉を汚したくないです。
 分けておいて、「友だち」もへったくれもないものです!
付記:「先生とお友だち」を作詞した故・吉岡治氏は、演歌や歌謡曲、アニメ主題歌から童謡まで、幅広いジャンルの歌詞を手がけてこられた方だそうです。

4月28日(土)心療内科、2回目の通院。薬が効いているのか、インシデントの時に落ち着いて対応できたこと、ネガティブな気持ちが起こることが少なくなった、と医師に話した。しばらく、同じ薬を続けることになった。心療内科では基本、愚痴や悩みを話すことはできず、自分の状態はできるだけ手短に済ませることが求められた。もっとこちらの話をじっくり聞いてほしいというのが本音だが、ないものねだりをしても仕方ないと自らに言い聞かせる。心療内科の対応で傷つく人も少なくないのではと感じる。