異世界北海道で美味しいごはん〜夫に捨てられたけれど農業男子の愛が止まりません〜

――半年後。

 長い冬を越え、トーカチーに遅い春がやってきた。

 雪解け水が白樺林の間を流れ、凍りついていた大地が少しずつ顔を出していく。

 朝の空気には、まだ冷たさが残っている。

 けれど、風の中には確かな春の匂いが混じっていた。

 雪の下で眠っていた草花が、小さな芽を出している。

「春ですね」

 私は店の前に立ち、空を見上げた。

 青い空。

 どこまでも澄み渡った、トーカチーの空だった。

「ええ」

 隣にはテオがいる。

 銀縁眼鏡の奥の瞳が、穏やかに細められていた。

「今年は、忙しくなりますよ」

「はい」

 私は笑った。

「生姜も白菜も玉ねぎも、たくさん植えないといけませんから」

「歌うトマトもですね」

 そして。

 私たちは町の小さな教会で結婚式を挙げることになった。

 白い花を飾った小さな教会。

 町の人たちが総出で準備をしてくれている。

「爽子ちゃん、おめでとう!」

「テオさん、しっかりするんだよ!」

「二人とも幸せにな!」

 そんな声が飛び交うたび、私は恥ずかしくて頬を赤くした。

 テオも珍しく照れたように眼鏡を何度も押し上げている。

 冬の間に、テオとトーカチー公爵との隔たりも少しずつ消えていった。

 雪が解けるように。

 長い間凍りついていた親子の心も、少しずつ温かさを取り戻していったのだ。

 テオは相変わらず農業ギルドで働いている。

 農家の相談に乗り、土壌を調べ、作物の育て方を教える。

 そして領内の税収管理にも携わるようになった。

 農民から必要以上に税を取り立てるのではなく。

 その年の収穫量を考え、無理なく暮らしていけるように。

「農家が豊かにならなければ、領地そのものが豊かにはなりませんから」

 そう話すテオの姿は、とても誇らしげだった。

 そんなテオを、公爵も少しずつ認めるようになった。

 一方、レオンは正式に公爵家の爵位を継ぐことが決まった。

 まだ若い彼を支えるため、トーカチー公爵はしばらく政務を補佐することになったが、領地の未来は確実に次の世代へと動き始めている。

 そしてトーカチーは、大きく変わった。

 水車小屋が本格的に稼働し始めた。

 デントコーンの粉砕が行われ、コーンスターチが町の新しい産業になった。

 小麦の生産も増え、生姜の栽培も広がった。

 物流の拠点として多くの荷馬車が行き交い、トーカチーはやがて一大穀倉地帯へと発展していった。

 それでも。

 ヴェダー亭は変わらない。

 朝になれば、チョボたちが鶏小屋から元気な声を上げる。

「コケッ、コッコッ」

「おはよう、チョボ」

 木箱を覗くと、今日も生みたての卵が並んでいた。

「ありがとう」

 卵を一つずつ籠へ入れる。

 その隣では、井戸の精霊が眠そうに顔を出していた。

「おはよう」

「ヒィぃ……」

「ふふ。相変わらずね」

 井戸の水は、今日も冷たくて美味しい。

 そして、庭へ出る。

「ジュリッ!」

 空から大きな影が降りてきた。

 シマエナガだ。

 あの小さかった白い鳥は、今ではすっかり大きくなった。

 羽を広げれば、大人一人を乗せて飛べるほどだ。

「おかえり」

「ジュリッ!」

 背中には、二匹のヴェダーが乗っている。

「ヴェダー!」

「ヴェダー!」

 畑の上を、シマエナガが大きな羽を羽ばたかせて飛んでいく。

 ヴェダーたちは大喜びだ。

 葉っぱをぴんと伸ばし、風に揺られている。

「危ないから、ちゃんと掴まってね!」

「ヴェダー!」

 今日も畑は賑やかだった。

 私とテオは並んで畑へ入り、生姜の苗を一つずつ植えていく。

「もう少し深く」

「こうですか?」

「はい、そのくらいです」

 土を掘り、小さな生姜をそっと置く。

 上から優しく土をかぶせる。

「今年は去年よりたくさん採れるといいですね」

「きっと大丈夫です」

 その時。

「ヴェダー!」

 茶色いヴェダーが、短い手で何かを抱えて走ってきた。

 茶褐色のペレットだ。

「ありがとう」

 畑の土へ混ぜ込む。

 茶色いヴェダーが胸を張る。

「ヴェダー!」

「助かるわ」

 以前はどうしたらいいのか悩んでいたペレットも、今では大切な有機肥料になった。

 土は豊かになり、作物は元気に育っている。

 その様子を見ながら、テオが微笑む。

「今年も豊作になりそうですね」

「はい」

 私は土を払って立ち上がった。

 遠くから教会の鐘が鳴る。

 その音に重なるように、店の方から大きな声が聞こえてきた。

「爽子ちゃん!」

「はーい!」

「今日のおすすめはなんだい?」

 私は畑から店の方へ振り返る。

 店先には、朝から訪れたお客様が何人も並んでいた。

 ヴェダーたちも忙しそうに駆け回っている。

 私は笑顔で答えた。

「とうもろこしご飯と豚汁です!」

「おお! そりゃ楽しみだ!」

 店内から笑い声が起こる。

 厨房では寸胴鍋がグツグツと音を立てている。

 とうもろこしの甘い香り。

 味噌の香り。

 豚肉の旨味。

 窓から差し込む春の日差し。

 テオが私の隣へ並ぶ。

「そろそろ行きましょうか」

「はい」

 二人で顔を見合わせる。

 そして、ヴェダー亭へ向かって歩き始める。

 あの頃。

 何も分からない異世界へ突然やってきた私は、ただ一人で途方に暮れていた。

 熊ちゃんを探して。

 自分の居場所を探して。

 泣いた日もあった。

 悩んだ日もあった。

 それでも。

 料理を作った。

 畑を耕した。

 たくさんの人と出会った。

 笑った。

 失敗した。

 そして――。

 大切な人を見つけた。

「爽子さん」

「はい?」

「これからもよろしくお願いします」

 テオが照れくさそうに笑う。

「こちらこそ」

 私も笑った。

 店の扉を開ける。

「いらっしゃいませ!」

 明るい声が響く。

「ヴェダー!」

「ジュリッ!」

 今日もヴェダー亭は賑やかだ。

 新しい料理。

 新しい作物。

 新しい出会い。

 明日になれば、また何かが変わるかもしれない。

 それでも。

 この場所で。

 この人たちと。

 笑って暮らしていけるなら、それでいい。

 トーカチーの青空は、今日もどこまでも澄み渡っている。

 春の風が白樺の枝を揺らす。

 その向こうには、雪解けを終えた広大な大地が広がっていた。

 今年もまた、新しい命が芽吹く。

 そしてヴェダー亭では今日も。

「いただきます!」

 笑顔の一日が、始まるのだった。