「……爽子さんに、どのような過去があったのか」
テオは静かに口を開いた。
その声には、少しの迷いもなかった。
「そんなことは、私には関係ありません」
店内が静まり返る。
私は顔を上げることができなかった。
けれど、すぐ目の前にテオが立っていることだけは分かる。
「私は――」
一度、言葉を切る。
そして、ゆっくりと私へ振り返った。
「今の爽子さんを、お慕いしています」
「……テオさん」
胸が大きく鳴った。
まるで店内にいる全員へ聞かせるような、はっきりとした声だった。
クローディアが目を見開く。
「な……」
言葉が出ない。
私はただ、テオの背中を見つめていた。
あの日。
初めて畑を見てもらった時も。
生姜を一緒に植えた時も。
病気になったテオを看病した時も。
収穫祭で冷えた指先に、そっと触れてくれた時も。
テオはいつだって、私を一人の人間として見てくれていた。
過去ではなく。
肩書きでもなく。
目の前にいる私を。
「爽子さんが作る料理が好きです」
テオは続ける。
「畑で土に触れている姿も好きです」
「町の人たちの相談に乗っている姿も」
「ヴェダーたちに話しかけている姿も」
その声は、どんどん優しくなっていく。
「笑っている時の顔も」
「……」
涙が、ぽろりと頬を伝った。
「私は、そんな今の爽子さんを知っています」
テオは眼鏡の奥から真っ直ぐ私を見つめた。
「だから、過去を理由にあなたを否定することはありません」
「……テオさん」
「それに」
ほんの少しだけ、照れたように笑う。
「私が好きになったのは、今ここにいる爽子さんですから」
胸の奥がいっぱいになった。
言葉が出ない。
ただ涙だけが、次から次へと溢れてくる。
ヴェダーたちも、葉っぱを小さく揺らしていた。
「ヴェダー……」
シマエナガも窓辺からこちらを見つめ、黒い瞳をぱちぱちと瞬かせている。
店内にいた町の人たちは、誰も何も言わなかった。
けれど、その沈黙は先ほどまでの冷たいものではない。
誰もが二人を静かに見守っていた。
私は涙を拭う。
「……私も」
震える声で呟く。
テオが目を見開く。
「私も、テオさんといると……嬉しいです」
それだけ言うのが精いっぱいだった。
顔が熱い。
きっと耳まで真っ赤になっている。
それでも、今度は目を逸らさなかった。
テオはしばらく私を見つめ――。
ふっと、優しく微笑んだ。
「ふ、ふん! 馬鹿らしい!」
クローディアは吐き捨てるように言った。
真っ赤になった顔を隠すようにバッグを掴み、勢いよく立ち上がる。
「クローディア……」
グリズリー辺境伯が呼び止める。
けれど、クローディアは振り返らない。
木のテーブルへバッグをぶつけながら、乱暴に毛皮のコートを羽織る。
「こんな小さな店に、これ以上いる必要なんてありませんわ!」
コートの襟を整え、御者へ鋭い目配せをする。
御者は慌てて扉を開けた。
「お帰りになりますか?」
「ええ! 今すぐよ!」
クローディアは雪の積もった店先へ出る。
月桂樹のモチーフが輝く黒塗りの豪奢な馬車が、白い雪の中で待っていた。
その扉へ手を掛ける。
その時。
「また走るのか?」
「勘弁してくれよ……」
四頭の馬たちが、ぶるるっと鼻を鳴らした。
「七泊八日の旅の後だぞ」
「今日はもう厩で休みたかったのに」
「人間は元気だなぁ」
御者が聞こえないふりをして手綱を握る。
「頼むから、もう少し静かにしてくれ」
「俺たちは口が動くんだから仕方ないだろ」
そんな馬たちの愚痴をよそに、クローディアは馬車へ乗り込んだ。
けれど。
その場に一人、取り残された男がいた。
グリズリー辺境伯だった。
彼はしばらく店の入口に立ち尽くしていた。
そして、ゆっくりと爽子へ視線を向ける。
「爽子……」
懐かしそうに、その名を呼ぶ。
「また、この店に来てもいいか?」
胸の奥に残る想いを隠せないような声だった。
私はしばらく黙っていた。
昔の自分なら。
きっと嬉しかった。
熊ちゃんが帰ってきた。
もう一度会えた。
そう思って、泣いていたかもしれない。
けれど。
今は違う。
私はゆっくり首を横へ振った。
「……ここに、あなたの席はありません」
自分でも驚くほど、冷静な声だった。
グリズリー辺境伯の瞳が揺れる。
「……そうか」
それだけだった。
怒ることもなく。
言い返すこともなく。
ただ、寂しそうに微笑んだ。
「そうだな」
小さく呟く。
そして馬車へ向かう。
けれど。
何度も振り返った。
店の青い屋根。
木製の看板。
窓から漏れる温かなランプの灯り。
そして、その前に立つ爽子。
その姿を、目に焼き付けるように。
やがて馬車へ乗り込む。
ずしり。
車体が重みで沈み、ギシッと軋んだ。
御者が扉を閉める。
ゆっくりと。
音を立てながら。
最後に見えたのは、グリズリー辺境伯の横顔だった。
その目は、まだこちらを見つめていた。
「ハイヤー!」
御者が手綱を引く。
パシンッ!
鞭の音が雪原へ響いた。
四頭の馬が歩き出す。
「重いなぁ」
「仕方ないだろ」
「早く帰って干し草を食べたい……」
ぶつぶつと文句を言いながら、馬たちは白い街道を進んでいく。
黒塗りの豪奢な馬車が、少しずつ遠ざかる。
やがて。
吹雪が強くなった。
白い雪が視界を覆い、馬車の輪郭がぼんやりと霞んでいく。
そして――。
グリズリー辺境伯とクローディアを乗せた馬車は、雪の向こうへ完全に消えていった。
「……終わったんだ」
私は小さく呟いた。
胸の奥に、寂しさはあった。
けれど、それ以上に不思議なほど穏やかな気持ちだった。
「爽子さん」
背後から声がする。
振り返る。
そこにはテオが立っていた。
銀縁眼鏡の奥の瞳が、優しく私を見つめている。
「寒いですよ」
「……はい」
私は小さく笑った。
店の中ではヴェダーたちが葉っぱを揺らしながら、二人を待っている。
温かなランプの灯り。
豚骨スープの香り。
そして、これから始まる新しい日々。
私はそっと店の扉を閉めた。
外は雪。
けれど。
ヴェダー亭の中は、春のように暖かかった。
テオは静かに口を開いた。
その声には、少しの迷いもなかった。
「そんなことは、私には関係ありません」
店内が静まり返る。
私は顔を上げることができなかった。
けれど、すぐ目の前にテオが立っていることだけは分かる。
「私は――」
一度、言葉を切る。
そして、ゆっくりと私へ振り返った。
「今の爽子さんを、お慕いしています」
「……テオさん」
胸が大きく鳴った。
まるで店内にいる全員へ聞かせるような、はっきりとした声だった。
クローディアが目を見開く。
「な……」
言葉が出ない。
私はただ、テオの背中を見つめていた。
あの日。
初めて畑を見てもらった時も。
生姜を一緒に植えた時も。
病気になったテオを看病した時も。
収穫祭で冷えた指先に、そっと触れてくれた時も。
テオはいつだって、私を一人の人間として見てくれていた。
過去ではなく。
肩書きでもなく。
目の前にいる私を。
「爽子さんが作る料理が好きです」
テオは続ける。
「畑で土に触れている姿も好きです」
「町の人たちの相談に乗っている姿も」
「ヴェダーたちに話しかけている姿も」
その声は、どんどん優しくなっていく。
「笑っている時の顔も」
「……」
涙が、ぽろりと頬を伝った。
「私は、そんな今の爽子さんを知っています」
テオは眼鏡の奥から真っ直ぐ私を見つめた。
「だから、過去を理由にあなたを否定することはありません」
「……テオさん」
「それに」
ほんの少しだけ、照れたように笑う。
「私が好きになったのは、今ここにいる爽子さんですから」
胸の奥がいっぱいになった。
言葉が出ない。
ただ涙だけが、次から次へと溢れてくる。
ヴェダーたちも、葉っぱを小さく揺らしていた。
「ヴェダー……」
シマエナガも窓辺からこちらを見つめ、黒い瞳をぱちぱちと瞬かせている。
店内にいた町の人たちは、誰も何も言わなかった。
けれど、その沈黙は先ほどまでの冷たいものではない。
誰もが二人を静かに見守っていた。
私は涙を拭う。
「……私も」
震える声で呟く。
テオが目を見開く。
「私も、テオさんといると……嬉しいです」
それだけ言うのが精いっぱいだった。
顔が熱い。
きっと耳まで真っ赤になっている。
それでも、今度は目を逸らさなかった。
テオはしばらく私を見つめ――。
ふっと、優しく微笑んだ。
「ふ、ふん! 馬鹿らしい!」
クローディアは吐き捨てるように言った。
真っ赤になった顔を隠すようにバッグを掴み、勢いよく立ち上がる。
「クローディア……」
グリズリー辺境伯が呼び止める。
けれど、クローディアは振り返らない。
木のテーブルへバッグをぶつけながら、乱暴に毛皮のコートを羽織る。
「こんな小さな店に、これ以上いる必要なんてありませんわ!」
コートの襟を整え、御者へ鋭い目配せをする。
御者は慌てて扉を開けた。
「お帰りになりますか?」
「ええ! 今すぐよ!」
クローディアは雪の積もった店先へ出る。
月桂樹のモチーフが輝く黒塗りの豪奢な馬車が、白い雪の中で待っていた。
その扉へ手を掛ける。
その時。
「また走るのか?」
「勘弁してくれよ……」
四頭の馬たちが、ぶるるっと鼻を鳴らした。
「七泊八日の旅の後だぞ」
「今日はもう厩で休みたかったのに」
「人間は元気だなぁ」
御者が聞こえないふりをして手綱を握る。
「頼むから、もう少し静かにしてくれ」
「俺たちは口が動くんだから仕方ないだろ」
そんな馬たちの愚痴をよそに、クローディアは馬車へ乗り込んだ。
けれど。
その場に一人、取り残された男がいた。
グリズリー辺境伯だった。
彼はしばらく店の入口に立ち尽くしていた。
そして、ゆっくりと爽子へ視線を向ける。
「爽子……」
懐かしそうに、その名を呼ぶ。
「また、この店に来てもいいか?」
胸の奥に残る想いを隠せないような声だった。
私はしばらく黙っていた。
昔の自分なら。
きっと嬉しかった。
熊ちゃんが帰ってきた。
もう一度会えた。
そう思って、泣いていたかもしれない。
けれど。
今は違う。
私はゆっくり首を横へ振った。
「……ここに、あなたの席はありません」
自分でも驚くほど、冷静な声だった。
グリズリー辺境伯の瞳が揺れる。
「……そうか」
それだけだった。
怒ることもなく。
言い返すこともなく。
ただ、寂しそうに微笑んだ。
「そうだな」
小さく呟く。
そして馬車へ向かう。
けれど。
何度も振り返った。
店の青い屋根。
木製の看板。
窓から漏れる温かなランプの灯り。
そして、その前に立つ爽子。
その姿を、目に焼き付けるように。
やがて馬車へ乗り込む。
ずしり。
車体が重みで沈み、ギシッと軋んだ。
御者が扉を閉める。
ゆっくりと。
音を立てながら。
最後に見えたのは、グリズリー辺境伯の横顔だった。
その目は、まだこちらを見つめていた。
「ハイヤー!」
御者が手綱を引く。
パシンッ!
鞭の音が雪原へ響いた。
四頭の馬が歩き出す。
「重いなぁ」
「仕方ないだろ」
「早く帰って干し草を食べたい……」
ぶつぶつと文句を言いながら、馬たちは白い街道を進んでいく。
黒塗りの豪奢な馬車が、少しずつ遠ざかる。
やがて。
吹雪が強くなった。
白い雪が視界を覆い、馬車の輪郭がぼんやりと霞んでいく。
そして――。
グリズリー辺境伯とクローディアを乗せた馬車は、雪の向こうへ完全に消えていった。
「……終わったんだ」
私は小さく呟いた。
胸の奥に、寂しさはあった。
けれど、それ以上に不思議なほど穏やかな気持ちだった。
「爽子さん」
背後から声がする。
振り返る。
そこにはテオが立っていた。
銀縁眼鏡の奥の瞳が、優しく私を見つめている。
「寒いですよ」
「……はい」
私は小さく笑った。
店の中ではヴェダーたちが葉っぱを揺らしながら、二人を待っている。
温かなランプの灯り。
豚骨スープの香り。
そして、これから始まる新しい日々。
私はそっと店の扉を閉めた。
外は雪。
けれど。
ヴェダー亭の中は、春のように暖かかった。

