異世界北海道で美味しいごはん〜夫に捨てられたけれど農業男子の愛が止まりません〜

「……これは、どういう騒ぎですかな?」

 トーカチー公爵の声が、静まり返った店内へ響いた。

 その視線は、まっすぐテオへ注がれている。

「テオドール」

「……」

「その手にしている物はなんだ」

「……父上」

 その一言に、店内の空気が変わった。

「父上?」

 誰かが小さく呟く。

 私は思わず顔を上げた。

 テオ。

 テオドール。

 公爵様の息子……?

 私は慌ててレオンの顔を見る。

 レオンは困ったように微笑んだ。

「テオドールは、私の弟です」

「……弟?」

 頭の中が真っ白になる。

 テオが以前話していた。

 厳格な父親。

 農民の暮らしを考えない地主。

 その父親と折り合いが悪く、家を出て農業ギルドへ就職したこと。

 質素な長屋で一人暮らしをしていること。

 あの時、テオが言っていた『地主』。

 まさか。

 その人が――。

「トーカチー公爵様……」

 私は呆然と公爵を見る。

 そして、もう一度テオを見る。

 銀縁眼鏡。

 いつもきちんと整えられた服装。

 農業について驚くほど詳しく、どんな相談にも的確に答えてくれた。

 今までのことが、すべて一本の線に繋がっていく。

「テオ……」

 私は震える声で呼びかけた。

「あなた……公爵様の息子さんだったのね」

 テオは少しだけ目を伏せた。

「……隠すつもりはなかったのですが」

「だったら、言ってくださいよ!」

「申し訳ありません」

 いつものテオらしい、困ったような顔。

 けれど、店内の町の人たちは大騒ぎだった。

「ええっ!?」

「テオさんが公爵様のご子息!?」

「じゃあ、農業ギルドで働いていたのは……」

「どうりで経営に詳しいわけだ!」

 皆が目を丸くしている。

 私もようやく納得した。

 貴重な生姜を、薬草園から簡単に分けてもらえたこと。

 水車小屋の工事が驚くほど早く始まったこと。

 農業ギルドが私の畑を親身になって見てくれたこと。

 全部、テオの力があったからなのだ。

「でも……」

 胸の奥が少しだけ痛んだ。

 テオは、そんなことを一度も自慢しなかった。

 むしろ、自分が公爵家の人間であることを隠すようにして、農民たちと同じ目線に立とうとしていた。

 だからこそ、私は彼のことを好きになったのだ。

 肩書きではなく。

 農家の畑を心配し、土に触れ、私と一緒に生姜を植えてくれたテオを。

「テオドール」

 公爵の声が響く。

「その虫はなんだ」

 テオは手にしていた木皿を静かに掲げた。

「これは……」

 一瞬、クローディアへ目を向ける。

「クローディア様のお召し物に紛れて、この店へ持ち込まれた物です」

「そうなのか」

「はい」

 テオの声は冷静だった。

「爽子さんに非はありません」

「……!」

 私は思わず胸を撫で下ろした。

 良かった。

 信じてもらえた。

 それだけで、張り詰めていた身体から力が抜けていく。

 けれど。

「何よ!」

 クローディアの声が響いた。

 顔を真っ赤にしている。

「夫に捨てられたくせに!」

「……!」

 店内が凍りつく。

 クローディアは怒りに任せて私を睨みつけた。

「テオドール様!」

 今度はテオへ向き直る。

「こんな女のどこがいいのですか!」

 その言葉が胸へ突き刺さった。

 私は何も言えなかった。

 夫に捨てられた。

 その言葉は、私が一番心の奥で恐れていたものだった。

 テオには知られたくなかった。

 自分から話したかった。

 いつか、ちゃんと自分の口で。

 それなのに。

 こんな場所で。

 こんな形で。

「爽子さん……」

 テオの声が聞こえる。

 けれど、私は顔を上げられなかった。

 俯いたまま、ぎゅっとエプロンの裾を握る。

 胸の奥が、痛かった。

 もう、隠しておくことはできない。

 テオは私のすべてを知ってしまった。

 前の夫のことも。

 離婚したことも。

 そして――。

 私が、もう一度誰かを好きになることを怖がっていたことも。

 店内には、誰も口を開かない。

 ただ暖炉の薪が、ぱちりと音を立てた。

 その時。

 テオが一歩、私の前へ出た。

 まるで私を庇うように。

 銀縁眼鏡の奥の瞳が、静かにクローディアを見つめていた。