異世界北海道で美味しいごはん〜夫に捨てられたけれど農業男子の愛が止まりません〜

「クローディア、何をした」

 低い声が、店内に響いた。

 熊ちゃん――グリズリー辺境伯の表情は、これまで見たことがないほど怒りに満ちていた。

 その視線を受け、クローディアの顔が強張る。

「わ……私は……」

 唇が震える。

「私は何もしていません!」

 店内にいた客たちは、固唾を呑んで二人を見つめていた。

 誰も口を挟まない。

 暖炉の薪が、ぱちりと小さく爆ぜる音だけが聞こえる。

 その時。

 テオがゆっくりと歩み寄った。

 手には、先ほどの木皿。

 その上には白い斑点を持つ毒蛾が乗っている。

 コトン。

 クローディアのテーブルへ木皿が置かれた。

 ヴェダー亭の中が、水を打ったように静かになった。

「クローディア様」

 テオが静かに声を掛ける。

「よろしいでしょうか?」

「な、なんですの?」

 クローディアは不快そうに眉を寄せた。

 テオは銀縁眼鏡の奥から、彼女を真っ直ぐ見つめる。

 そしてフォークの先で、木皿の毒蛾をそっと転がした。

「この毒蛾は、トーカチーには生息していません」

「……」

「失礼ですが、クローディア様はどちらからいらっしゃいましたか?」

「サッポローですけれど……」

 クローディアは怪訝そうに答える。

「それが何か?」

「そうですか」

 テオは頷いた。

「この毒蛾は、サッポロー周辺を中心に繁殖しています」

 店内から、小さなどよめきが起こった。

「じゃあ……」

「サッポローから来たってことか?」

 テオは毒蛾を見つめたまま続ける。

「この時期に、これほど弱った個体が単独でトーカチーまで飛来する可能性は低いでしょう」

「つまり……」

 誰かが呟く。

 テオは答えなかった。

 ただ、静かにクローディアを見た。

 その瞬間。

 ドンッ!

 熊ちゃんがテーブルを叩きつけた。

「クローディア!」

 怒声が店内へ響き渡る。

「爽子に何をした!」

「わ、私は何も……!」

「この毒蛾はどうした!」

「ラーメンの中に……これが……」

 クローディアの声が小さくなる。

 熊ちゃんの手が、テーブルの端を掴む。

 メキメキ。

 木が軋む。

 握り締めた指の関節が白くなる。

「……」

 誰もが息を呑んだ。

 テオはそんな熊ちゃんを一瞥すると、再びクローディアへ向き直った。

「クローディア様」

「……何ですの」

「この毒蛾は、クローディア様がヴェダー亭へ持ち込んだものかもしれません」

「……!」

 クローディアの顔が凍りついた。

「な、何を……」

「毒蛾の羽には、スープ以外のものも付着しています」

 テオは木皿を指先で回す。

「そして先ほどから気になっているのですが――」

 視線をクローディアのバッグへ向ける。

 そこから、白いハンカチが少しだけ覗いていた。

 クローディアは咄嗟にバッグを抱きしめる。

「それは……!」

 熊ちゃんの表情が険しくなる。

「クローディア……」

「知らないわ!」

 クローディアは声を荒らげた。

「私は何も知らない!」

 熊ちゃんの拳が震える。

「お前は……なんてことを!」

「違う!」

 クローディアの目に涙が浮かぶ。

「私はただ……!」

 そこで言葉が途切れた。

 テオは木皿を持ち上げる。

 そして、クローディアの鼻先へ静かに差し出した。

「この毒蛾」

 ほんの少しだけ、口元が微笑む。

「ドレスの月桂樹の刺繍を、寝床と間違えたのかもしれませんね」

「……!」

 クローディアの顔が、みるみる赤く染まっていく。

「この……!」

 怒りに唇を震わせる。

「この平民が何を失礼な!」

 椅子が大きく後ろへ引かれる。

 キィ――。

 その時だった。

 店の入口から、冷たい風が吹き込んだ。

 カラン――。

 扉の鈴が鳴る。

「失礼する」

 低く落ち着いた声。

 全員が入口へ振り返る。

 そこに立っていたのは、二人の男性だった。

 一人は白い雪を肩へ積もらせたトーカチー公爵。

 その隣には、同じように外套へ雪をまとったレオンがいる。

 二人は肩の雪を払いながら、ゆっくりと店内へ入ってきた。

「父上……」

 レオンが呟く。

 公爵は店内を見渡した。

 床に立ち尽くす爽子。

 険しい表情の熊ちゃん。

 顔を赤くしたクローディア。

 そして、テオの手にある木皿。

 その上の毒蛾。

 公爵の眉が、わずかに動いた。

「……これは、どういう騒ぎですかな?」

 その一言で。

 ヴェダー亭の空気は、さらに張り詰めたものへ変わった。