ヴェダー亭の中には、重たいざわめきが広がっていた。
「爽子ちゃんが、辺境伯の奥方だったんだって」
「ラーメンの中に虫が入っていたそうだ」
「まさか……」
「気持ち悪い」
背中越しに聞こえる小さな声。
ひそひそ。
ひそひそ。
その一つひとつが、針のように胸へ刺さってくる。
私は俯いた。
「私は……」
震える声を絞り出す。
「嫌がらせで虫を入れたりなんて、しません……」
誰に向かって言っているのか、自分でも分からなかった。
「熊ちゃ……」
一瞬、言葉が詰まる。
「……辺境伯のことは、もう終わったことです」
そう。
もう終わったこと。
私はヴェダー亭で、新しい人生を始めた。
料理を作って。
畑を耕して。
町の人たちと笑って。
テオと一緒に水車小屋のことを考えて。
それで十分だった。
なのに。
「おお、恐ろしい!」
クローディアの声が響く。
「こんな毒蛾をラーメンの中へ入れるなんて!」
「違います!」
思わず声を上げる。
「私は本当に知りません!」
「では、どうしてラーメンの中にいるのかしら?」
「それは……」
答えられない。
クローディアは勝ち誇ったように私を見つめていた。
その時だった。
「……失礼」
低い声がした。
テオだった。
静かに立ち上がる。
椅子を引く音だけが、やけに大きく店内へ響いた。
「テオさん……?」
テオは答えなかった。
クローディアの前へ歩み寄り、丼の中を覗き込む。
「少し、確認させてください」
「え?」
テオはテーブルの脇に置かれていたフォークを手に取った。
そして、豚骨スープの中へそっと差し入れる。
毒蛾の羽を傷つけないよう慎重に掬い上げる。
「ヒッ!」
クローディアが小さく悲鳴を上げた。
テオは気にする様子もなく、そのまま毒蛾を木皿へ移した。
「……」
店内が静まり返る。
テオは木皿をランプの下へ持っていった。
銀縁眼鏡を外す。
そして、顔を近づける。
「……なるほど」
触角の形。
羽の模様。
白い斑点。
羽の縁に残った鱗粉。
テオは農業ギルドで培った知識を総動員するように、じっと観察していた。
「テオさん、何を……」
「少し黙っていてください」
珍しく強い口調だった。
私は思わず口を閉じる。
テオの目が細くなる。
「これは……」
毒蛾の羽を角度を変えて確認する。
その時。
テオの視線が、ふと横へ動いた。
クローディアの足元。
椅子の脇に置かれたバッグ。
そこから、白いハンカチの端がわずかにはみ出している。
「……」
テオは黙ってハンカチを見つめた。
そして、もう一度毒蛾を見る。
羽に付着した鱗粉。
ハンカチの端。
何かを確かめるように、テオは眼鏡を掛け直した。
「クローディア様……」
その声が落ちた瞬間。
店の外から、激しい馬蹄の音が聞こえてきた。
ドドドドドッ!
「な、何だ?」
客たちが一斉に窓へ振り向く。
雪を蹴散らしながら、一台の黒い馬車が店の前へ勢いよく止まった。
馬車の側面には、百合の紋章が象られている。
「……!」
クローディアの顔色が変わった。
馬が荒い鼻息を吐く。
御者が慌てて馬車へ駆け寄り、扉へ手を伸ばす。
しかし、その前に。
バンッ!
扉が勢いよく開いた。
「お客様!」
御者の声が響く。
黒い外套を翻し、一人の男が飛び出してきた。
雪を踏みしめる足音。
乱れた呼吸。
そして、店内を見渡す鋭い瞳。
グリズリー辺境伯――熊一だった。
「……爽子!」
その声が店内へ響き渡った。
私は息を呑んだ。
「……熊、ちゃん」
唇から、無意識にその名が零れた。
テオが振り返る。
クローディアも振り返る。
店内の誰もが、息を潜めて二人を見つめていた。
熊ちゃんの視線が私を捉える。
その瞳に浮かんだのは、驚きだった。
そして――安堵。
だが、その視線はすぐにテーブルの上へ移った。
木皿に置かれた毒蛾。
そして、顔色を変えたクローディア。
熊ちゃんの眉間に、深い皺が刻まれた。
「爽子ちゃんが、辺境伯の奥方だったんだって」
「ラーメンの中に虫が入っていたそうだ」
「まさか……」
「気持ち悪い」
背中越しに聞こえる小さな声。
ひそひそ。
ひそひそ。
その一つひとつが、針のように胸へ刺さってくる。
私は俯いた。
「私は……」
震える声を絞り出す。
「嫌がらせで虫を入れたりなんて、しません……」
誰に向かって言っているのか、自分でも分からなかった。
「熊ちゃ……」
一瞬、言葉が詰まる。
「……辺境伯のことは、もう終わったことです」
そう。
もう終わったこと。
私はヴェダー亭で、新しい人生を始めた。
料理を作って。
畑を耕して。
町の人たちと笑って。
テオと一緒に水車小屋のことを考えて。
それで十分だった。
なのに。
「おお、恐ろしい!」
クローディアの声が響く。
「こんな毒蛾をラーメンの中へ入れるなんて!」
「違います!」
思わず声を上げる。
「私は本当に知りません!」
「では、どうしてラーメンの中にいるのかしら?」
「それは……」
答えられない。
クローディアは勝ち誇ったように私を見つめていた。
その時だった。
「……失礼」
低い声がした。
テオだった。
静かに立ち上がる。
椅子を引く音だけが、やけに大きく店内へ響いた。
「テオさん……?」
テオは答えなかった。
クローディアの前へ歩み寄り、丼の中を覗き込む。
「少し、確認させてください」
「え?」
テオはテーブルの脇に置かれていたフォークを手に取った。
そして、豚骨スープの中へそっと差し入れる。
毒蛾の羽を傷つけないよう慎重に掬い上げる。
「ヒッ!」
クローディアが小さく悲鳴を上げた。
テオは気にする様子もなく、そのまま毒蛾を木皿へ移した。
「……」
店内が静まり返る。
テオは木皿をランプの下へ持っていった。
銀縁眼鏡を外す。
そして、顔を近づける。
「……なるほど」
触角の形。
羽の模様。
白い斑点。
羽の縁に残った鱗粉。
テオは農業ギルドで培った知識を総動員するように、じっと観察していた。
「テオさん、何を……」
「少し黙っていてください」
珍しく強い口調だった。
私は思わず口を閉じる。
テオの目が細くなる。
「これは……」
毒蛾の羽を角度を変えて確認する。
その時。
テオの視線が、ふと横へ動いた。
クローディアの足元。
椅子の脇に置かれたバッグ。
そこから、白いハンカチの端がわずかにはみ出している。
「……」
テオは黙ってハンカチを見つめた。
そして、もう一度毒蛾を見る。
羽に付着した鱗粉。
ハンカチの端。
何かを確かめるように、テオは眼鏡を掛け直した。
「クローディア様……」
その声が落ちた瞬間。
店の外から、激しい馬蹄の音が聞こえてきた。
ドドドドドッ!
「な、何だ?」
客たちが一斉に窓へ振り向く。
雪を蹴散らしながら、一台の黒い馬車が店の前へ勢いよく止まった。
馬車の側面には、百合の紋章が象られている。
「……!」
クローディアの顔色が変わった。
馬が荒い鼻息を吐く。
御者が慌てて馬車へ駆け寄り、扉へ手を伸ばす。
しかし、その前に。
バンッ!
扉が勢いよく開いた。
「お客様!」
御者の声が響く。
黒い外套を翻し、一人の男が飛び出してきた。
雪を踏みしめる足音。
乱れた呼吸。
そして、店内を見渡す鋭い瞳。
グリズリー辺境伯――熊一だった。
「……爽子!」
その声が店内へ響き渡った。
私は息を呑んだ。
「……熊、ちゃん」
唇から、無意識にその名が零れた。
テオが振り返る。
クローディアも振り返る。
店内の誰もが、息を潜めて二人を見つめていた。
熊ちゃんの視線が私を捉える。
その瞳に浮かんだのは、驚きだった。
そして――安堵。
だが、その視線はすぐにテーブルの上へ移った。
木皿に置かれた毒蛾。
そして、顔色を変えたクローディア。
熊ちゃんの眉間に、深い皺が刻まれた。

