異世界北海道で美味しいごはん〜夫に捨てられたけれど農業男子の愛が止まりません〜

「爽子ちゃん! オーダーお願いできるかい!」

 店の奥から、お客様の声が飛んできた。

「はい!」

 私は反射的に返事をする。

 クローディアへ小さく会釈をすると、踵を返した。

「……」

 胸が苦しい。

 できるだけいつも通りに振る舞おうとしているのに、足取りが重かった。

 その背中を、テオがじっと見つめている。

 いつもの私とは違う。

 明らかに何かを抱えている。

 そう思っているような目だった。

 その時だった。

「ぎゃっ!」

 店内に鋭い悲鳴が響き渡った。

「えっ?」

 私が振り返る。

 クローディアが椅子から勢いよく立ち上がっていた。

 周囲の視線が一斉に集まる。

「どうされましたか!?」

 慌てて駆け寄る。

 クローディアはわなわなと唇を震わせ、テーブルの上を指差していた。

「ラーメンの中に……こんなものが!」

「え?」

 私も丼へ目を向ける。

 乳白色の豚骨スープ。

 その中央に、何か黒いものが浮いている。

「……!」

 白い斑点のある親指くらいの大きさの虫だった。

 スープの上で羽を小刻みに動かしている。

 そのたびに、細かな鱗粉がゆらゆらと舞った。

「虫!」

 クローディアが叫ぶ。

「ラーメンの中に虫が入っているわ!」

「えっ、虫?」

「本当か?」

 客たちが次々に立ち上がる。

 窓の外で順番を待っていた町の人たちまで、何事かと店内を覗き込んでいる。

「なんだ?」

「どうしたんだ?」

「辺境伯の奥様が騒いでるぞ」

 店内は一瞬で騒然となった。

「申し訳ありません!」

 私は丼を覗き込む。

「私が確認します」

「触らないで!」

 クローディアは一歩後ろへ下がった。

 顔から血の気が引いている。

「毒蛾よ!」

「……毒蛾?」

 私は息を呑む。

 白い斑点。

 黒い羽。

 越冬を逃した毒蛾。

 まさか。

 そんなはずはない。

 けれど、クローディアのバッグから一瞬だけ白いハンカチの端が覗いているのが見えた。

 胸の奥がざわつく。

 その時。

「私が主人と結婚したことを恨んでいるんでしょう!」

 クローディアの声が店内へ響き渡った。

「だから嫌がらせにこんなことを!」

「……え?」

 私の思考が止まる。

 クローディアは震える指で私を指差した。

「どこまでも性根が腐った女ね!」

 その瞳には、激しい怒りが燃えていた。

「ち、違います……」

 声が出ない。

 何を言っているの?

 私は何もしていない。

 毒蛾なんて知らない。

 それなのに。

「主人?」

 店の奥から誰かが呟いた。

「辺境伯のことか?」

「じゃあ……」

 客たちが顔を見合わせる。

「辺境伯と爽子ちゃんが関係あるのか?」

「前の妻って……」

 ざわざわ。
 ざわざわ。

 店内の空気が変わっていく。

 私は何も言えない。

 喉が締めつけられ、声が出てこなかった。

 クローディアはさらに声を張り上げた。

「そうよ!」

 そして、はっきりと言った。

「この女が、私の主人の前の妻よ!」

「……!」

 その瞬間。

 テオの動きが止まった。

 手にしていたフォークが、皿の上でカタンと音を立てる。

 ゆっくりと顔を上げる。

 銀縁眼鏡の奥の瞳が、私を見つめていた。

「爽子……さん?」

 その声には、驚きと戸惑いが混じっていた。

 胸がズキリと痛む。

 いつか話さなければならないと思っていた。

 離婚したこと。

 熊ちゃんのこと。

 そして、この世界へ来ることになった理由。

 けれど。

 こんな形で知られるなんて。

「……」

 私は唇を開く。

 けれど、声にならない。

 テオの目が揺れている。

 今まで私を見つめてくれていた優しい瞳が、信じられないものを見るように揺れている。

 そして。

 丼の中で、毒蛾がまた小さく羽を動かした。

 白い鱗粉が、乳白色のスープの上でゆらりと揺れる。

 私はその光景を呆然と見つめた。

 離婚歴が、テオに知られてしまった。

 それだけではない。

 あの毒蛾まで。

 どうしてこんなことに。

 店内のざわめきだけが、遠くで聞こえていた。