異世界北海道で美味しいごはん〜夫に捨てられたけれど農業男子の愛が止まりません〜

「……あなたは、熊ちゃんの……」

 声が震えた。

 目の前に立っている女性。

 深紅のドレス、黒い月桂樹の刺繍。

 白銀の毛皮。

 冷たいほど整った顔立ち。

 間違えるはずがない。

「クローディアよ」

「クローディア……様」

 その名前を口にした瞬間、胸の奥がズキリと痛んだ。

 熊ちゃんが、私の知らない場所で暮らしていた時の妻。

 私とは違う世界で、正式に彼の隣にいた女性。

 クローディアは店内をゆっくり見渡した。

「長旅でお腹が空いたの」

 そして、まるで何事もなかったかのように微笑む。

「おすすめの豚骨ラーメンを頂けるかしら?」

「……はい」

 私は小さく頭を下げた。

「かしこまりました」

 胸の奥が苦しい。

 それでも私は、いつものように厨房へ向かった。

 クローディアは、ヴェダー亭の中に突然咲いた大輪の深紅の薔薇のようだった。

 青い屋根の小さな店には、あまりにも華やかすぎる。

 その姿を一目見ようと、店の前にはいつの間にか人が集まり始めていた。

「なんだ?」

「どうしたんだ?」

「あんな立派な馬車、見たことないぞ」

「月桂樹の紋章だ……ア・バーシリーの辺境伯じゃないのか?」

 雪の積もった道へ人が集まり、小さな窓から店内を覗き込んでいる。

 いつもの市場とは違う、妙な緊張感が漂っていた。

 そんなことなど気にする様子もなく、クローディアは案内された窓際の席へ腰を下ろした。

 スカートの裾を整え、背筋を伸ばす。

 優雅な仕草だった。

 そして、ふと窓枠へ指を伸ばす。


 指先で木の桟を撫でた。

「……随分と素朴なお店ね」

 ぽつりと呟く。

 その言葉に、私は何も答えなかった。

 その時。

「ヴェダー!」

 ヴェダーが小さな木桶を抱えて、水を運んできた。

 いつものように、短い手で一生懸命にコップを持ち上げている。

「ヴェダー!」

 クローディアの前へ水を置こうとした。

 けれど。

「……っ」

 クローディアは眉をひそめた。

 まるで気持ちの悪いものを見るように、手を振ってヴェダーを追い払う。

「ヴェダー……」

 小さな葉っぱが、しょんぼりと垂れた。

 私は思わず振り返った。

 けれど何も言わなかった。

「ヴェダー、こっちへおいで」

 小さな声で呼ぶと、ヴェダーはとぼとぼと私の足元へ戻ってくる。

 私は頭を一度だけ撫でた。

「大丈夫よ」

 そして、厨房へ向き直る。

 寸胴鍋の蓋を開ける。

 乳白色の豚骨スープから、濃厚な香りが立ち上った。

 麺を茹でる。

 湯気が厨房いっぱいへ広がる。

 チャーシューを切る。

「いただきます」

 青ネギを刻む。

 いつもと同じ。

 何度も繰り返してきた作業。

 なのに。

 今日は手が重い。

 包丁を握る指先に力を込める。

 クローディアがいる。

 熊ちゃんの妻が、すぐそこにいる。

 あの人は、私のことをどう思っているのだろう。

 何をしに来たのだろう。

 考えれば考えるほど、胸が苦しくなった。

「爽子さん」

 不意に声がした。

 厨房の外。

 テオだった。

 クローディアの隣の席で、いももちを食べている。

 けれど、いつものように美味しそうに食べてはいない。

 銀縁眼鏡の奥の瞳は、クローディアの一挙一動に釘付けになっていた。

 何者なのか。

 なぜここへ来たのか。

 そして、なぜ爽子の表情がこれほど硬いのか。

 すべてを探るような目だった。

 私は一瞬だけテオを見る。

 目が合った。

 テオは何かを言おうとした。

 けれど、口を閉じる。

 私は小さく首を横へ振った。

 今は料理をする。

 それしかできない。

「……よし」

 最後にスープを丼へ注ぐ。

 乳白色の豚骨スープ。

 その上へ艶やかな麺を整え、チャーシューを並べる。

 青ネギを散らす。

 いつもの豚骨ラーメン。

 けれど今日は、いつもとは違う料理に見えた。

 私は両手で盆を持ち、クローディアの席へ向かった。

 店内の視線が一斉に集まる。

 窓の外からも、人々が息を潜めて見つめている。

 私はテーブルの前で足を止めた。

「どうぞ……」

 声が少し震える。

「お待たせしました」

 木のテーブルへ、豚骨ラーメンをそっと置く。

 白い湯気が、ふわりと立ち上る。

 濃厚な豚骨の香りが、クローディアの前へ広がった。

 クローディアはしばらく丼を見つめていた。

 それから、ゆっくりと顔を上げる。

 深紅のドレスに包まれたその姿と、素朴な土の器。

 あまりにも対照的だった。

 そして。

 クローディアは静かにフォークを手に取った。