もう、あなたの妻には戻りません ~異世界北海道で食堂を始めた私に、農業男子の溺愛が止まりません~

「熊ちゃん!」

「グリズリー様!」

 宿屋にいた全員の視線が、一斉に入口へ向いた。

 熊ちゃんは宿屋の入口を豪快に壊してしまった。

 押し戸と引き戸を間違えたらしい。

 分厚い木の扉は蝶番ごと外れ、床に無残な姿で転がっている。

「あぁ、すまん」

 熊ちゃんは頭をぽりぽりと掻いた。

「あとで修理させる」

 そう言って、申し訳なさそうにギルの手へ金貨を一枚握らせる。

 ギルは金貨と壊れた扉を見比べて、苦笑いを浮かべた。

「……毎度あり?」

 思わず吹き出しそうになる。

 そうだ。

 熊ちゃんは昔から、いろいろなものを壊す人だった。

 スマホを握れば、力加減を間違えて液晶が蜘蛛の巣みたいにひび割れる。

 冬の除雪では、雪が止まないことに腹を立ててスコップを振り下ろし、愛車のルーフへ見事な穴を開けた。

 寸胴鍋を持ち上げれば取っ手を曲げ、椅子へ座れば脚を折る。

 そのたび私は呆れながら笑っていた。

 今思えば、あれも幸せな日常だった。

「爽子」

 熊ちゃんはズンズンとキッチンへ歩いてくる。

 大きな体が近づくだけで、宿屋の床がミシミシと軋んだ。

 そして大きな手が、私の腕をそっと掴む。

 温かい。

 あの日と同じ温もりだった。

 私は反射的に息を呑む。

「なに?」

 懐かしさを押し殺し、熊ちゃんを睨み返した。

「今さら、なんの用?」

 熊ちゃんは一瞬だけ言葉を失い、困ったように目を逸らす。

 やがて視線はキッチンカウンターへ向いた。

 そこには、食べかけの肉じゃが風ポテトソテーが残っている。

 照りのある甘辛いタレ。

 こんがり焼けたじゃがいも。

 熊ちゃんはその皿を、昔の宝物でも見るような目で見つめていた。

「……これ」

 震える指でフォークを持つ。

 ゆっくりとじゃがいもを刺し、口へ運んだ。

 醤油の香ばしい香りがふわりと立ち上る。

 一口。

 二口。

 熊ちゃんは静かに噛み締めた。

 そして、眉間に皺を寄せたまま天井を仰ぐ。

 私は知っている。

 熊ちゃんが本当に美味しいものを食べた時の癖だ。

「あぁ……」

 小さく息を吐く。

「うまいな」

 その一言には、いろいろな感情が混じっていた。

「爽子の味だ」

 胸の奥が熱くなる。

 狭い厨房。

 二人で仕込みをした朝。

 営業が終わったあと、余った肉じゃがをつまみながら缶ビールを飲んだ夜。

 笑い合って過ごした何気ない日々が、一気に蘇った。

 泣きそうになる。

 でも、泣かない。

「爽子」

 熊ちゃんは私の手をもう一度しっかり握った。

 周りではギルもドワーフも獣人たちも、固唾を呑んで見守っている。

 宿屋の中が静まり返った。

 熊ちゃんは真っ直ぐ私を見つめた。

「爽子。本当に出ていくのか?」

「……」

「俺の側に、いないのか?」

「……はい?」

 何を言われたのか、一瞬理解できなかった。

 思わず聞き返す。

「熊ちゃん」

 私は静かに問い掛ける。

「熊ちゃんには奥さんがいるよね?」

「……ああ」

 迷いもなく頷く。

 その一言で、胸の奥から怒りが込み上げてきた。

「じゃあ、私は?」

 声が震える。

「私は熊ちゃんにとって何なの?」

 熊ちゃんは少しだけ考えたあと、真面目な顔で言った。

「第二夫人にならないか?」

 次の瞬間。

 私の右手は勢いよく振り抜かれていた。

 パシン!

 乾いた音が宿屋中へ響く。

 熊ちゃんの頬が横を向く。

 ドワーフたちは「ひぇっ」と肩を震わせ、物陰へ隠れた。

 妖精たちまで羽を縮めて天井へ逃げていく。

 獣人たちは耳を伏せ、誰一人声を出せない。

「バカにしないで!」

 怒鳴った声が、自分でも驚くほど大きかった。

「まっぴらごめんよ!」

「爽子、怒らないでくれ。この国じゃ、それが当たり前なんだ」

「当たり前だろうと、なんだろうと関係ない!」

 私は熊ちゃんの胸を押した。

「私が育った世界では違う!」

 熊ちゃんは何か言い返そうとして口を開く。

 でも言葉が出てこない。

「爽子」

 絞り出すような声だった。

「俺のために、うまい料理を作ってくれ」

 その言葉に、私は静かに首を振る。

「一緒に暮らしてくれ」

「私は熊ちゃんの料理人じゃないわ」

 涙が込み上げる。

 それでも笑った。

「私は、一人で生きていくから」

 熊ちゃんはしばらく私を見つめていた。

 何かを諦めたように、小さく頷く。

「……そうか」

 それだけ言うと踵を返した。

 壊れた扉をまたぎ、甲冑姿の従者たちを引き連れて辺境伯の城へ帰っていく。

 途中で何度も振り返った。

 でも私は、もう手を振らなかった。

 その大きな背中が霧の向こうへ消えていく。

 私は静かに見送りながら、心の中で本当の意味の別れを告げた。

 もう夫婦じゃない。

 思い出は消えない。

 でも、私は前を向いて歩いていく。

 ギルがそっと隣へやって来た。

「爽子、それでいいのかい?」

 私は涙を拭い、精一杯の笑顔で振り返る。

「ええ」

 胸の奥はまだ痛む。

 それでも、迷いはなかった。

「これでいいの」

 私は宿屋のキッチンを見渡した。

 鍋がある。

 包丁がある。

 待ってくれるお客さんがいる。

「もう熊ちゃんとは、違う人生を歩んでいるから」